🌍👜シニアバックパッカーの旅 ⑨ ジャパンナウ観光情報協会9月号原稿 ミャンマー散骨旅行記(2)
公開日:
:
最終更新日:2023/06/15
シニアバックパッカーの旅, ジャパンナウ観光情報協会
ヤンゴンはこれから高度経済成長期を迎える。1970年初めて渡った時の香港に感じが似ていた。宿泊したホテルの近くに1931年と書かれたビル(写真)を見つけた。満州事変時のものだ。街でフリーペーパー・ミャンマージャポンを見つけた。レオパレス、HISの宣伝に加え、県人会、趣味の会の紹介の欄がある。赤門会もあった。
イラワジ川での父親の遺骨を散骨した翌5月21日、タイ国境に近いゴールデンロック観光に出かけた。当日は満月、カソン祭りで、仏陀が悟りをひらいた日だそうだ。沿道いたるところで火炎樹が目に入る。日本兵は南洋桜と呼んだがおよそ桜には見えない。国境付近には少数民族(モン族)の反政府軍が存在するので、陸軍の管理する広大な敷地が沿道に広がっていた。軍事施設撮影禁止とガイドブックに出ていたが、ただ密林が広がるだけであった。
シッタウン河を渡る。川を挟んで日本と英国が戦争をしたとガイドが説明する。ドローンのない時代だから源平の合戦と基本は変わらない。ミャンマー人にすれば、いい迷惑で、『観光の政治学』著者・高媛さんのいうホスト・ゲスト論に当たる。ホストのミャンマー人にしてみれば、英国インド連合兵も日本兵も招かざるゲストであった。
初戦で勝利を収めた海軍は、戦略なき拡大に手を染めて豪州付近まで進出した。負けじと陸軍もビルマに拡大したのだが、補給路が伸びきって悲惨な結果になった。政府首脳部は責任問題になるから引っ込みがつかなく、大勢の兵隊を無駄に死なせた。中国や韓国に言われる前に、それだけでも国民に対して大きな責任がある。父の手記『両忘』に地図のない戦闘は大変だったとある。日本兵がマラリアにかかるのは当然だが、心臓の強かった父は生き残った。食料調達といってもコメの調達、軍票で支払ったと書いてあるが、その軍票も後続部隊が略奪したので、農民からすれば、日本軍は強盗集団だろう。父親の部隊は、家畜等を手にいれたようで、たんぱく質の補給ができ他の部隊からうらやましがられたと記述してある。しかし戦争に米食は不向きとの感想も書いている。英国のようにパンが良い。軽くて空輸ができる。そういう発想を上層部は全くしなかったが、まさか熱帯ジャングルでの戦闘まで考えていなかったからだろう。場当たり的派兵だったのだ。
関連記事
-
-
🌍🎒シニアバックパッカーの旅 2014年2月 カタール(国連加盟国62か国目 )
カタールは、「ドーハの悲劇」でしか印象にない国であったが、後年液化天然ガス産出国として、世界から注目
-
-
🌍🎒シニアバックパッカーの旅 2014年1月 日から2月 日までの南米旅行 アルゼンチン(国連加盟国58か所目)
金大付属中高時代の同級生の岡誠二君に世話になり、南米を旅行。岡君は農学部を卒業後ブラジルに渡って仕事
-
-
🌍👜シニアバックパッカーの旅 ⑥の4 21日、22日 トリニダートドバコ(国連加盟国106か国目)・ポルトオブスぺイン
21日深夜にトリニダートドバコに到着。いろいろあったが、予定通りの時間ではある。 入管の女性が、帰
-
-
保護中: 🌍🎒シニアバックパッカーの旅 トリエステ(イタリア特別自治州🏳🌈㊳) 旅行準備資料 アルベルコ・ディフィーゾ
◎Stop Flixbus Trieste
-
-
🌍🎒シニアバックパッカーの旅 エスワティニ/スワジランド国連加盟国127か国目(148)モザンビーク入国 国連加盟国128か国目(149)2019年2月22日、23日
エスワティニ到着。スタンプはスワジランドになっているのは、まだ国名変更が間に合わないということだ。
-
-
🌍🎒シニアバックパッカーの旅 2022年5月13日、15日リヨン 命名観光資源(サンテグジュベリ空港 ポールボキューズ市場)
facebooK投稿文 2022年5月13日 リヨンに到着。ライトレールが空港まで乗り入れ、
-
-
🌍🎒シニアバックパッカーの旅 2019年2月13~14日 アジスアベバ ホテルヴァウチャ―
エチオピア航空手配でトランジット用のホテルに宿泊。当初は空港での野宿のつもりで
-
-
🌍🎒シニアバックパッカーの旅 2016年2月 中東・東アフリカ旅行記3 ぺトラ遺跡
◎ 2月8日~10日 ヨルダン・アンマン・ぺトラ 車が7時に迎え。ペトラまで往復130ヨルダン
-
-
箱根について 藤田観光元会長の森本昌憲氏の話を聞いた結果のメモ書き ジャパンナウセミナー
2017年10月13日ジャパンナウ観光情報協会の観光立国セミナーで森本氏の話を聞く。日本ホテル・レス