「植民地朝鮮における朝鮮総督府の観光政策」李良姫(メモ)
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最終更新日:2019/07/07
人流・観光政策への評論, 国際観光論, 戦跡観光, 歴史は後から作られる」
植民地朝鮮における朝鮮総督府の観光政策
李 良 姫
『北東アジア研究』第13号(2007年3月)
はじめに
1.朝鮮鉄道と観光開発
2.植民地統治政策としての観光
3.植民地化における女性と観光
4.植民地と戦後の観光政策
金剛山観光
朝鮮総督府鉄道局の交通手段の整備は、朝鮮観光に大きな役割を果たしている。
朝鮮総督府が観光開発に力を入れていた「金剛山」の事例から、鉄道整備が観光客増加に影響を与えたことが伺える。1925年に186名だった金剛山観光は、鉄道の整備により1938年には24892名に達した。
朝鮮鉄道の意義 by 韓国人研究者
韓国人研究者は、植民地鉄道が朝鮮内での物資流通や旅客の輸送、朝鮮経済の形成よりは日本経済の外延的拡大及び大陸侵略における動脈の役割を果たしていたとする。しかし、鉄道が朝鮮内の経済活性化や朝鮮人の主要な移動手段にもなっていることを考えれば、一面的な論断。朝鮮鉄道の開通は、朝鮮内での貨物や旅客の輸送の両面で利用されていたとするのが実態に近い。台湾鉄道とは若干異なり、朝鮮鉄道の多くは、その最初の段階から、産業線に加え観光客の便宜を図るための鉄道として活用されてきた。従って、朝鮮総督府鉄道局は、直営以外の朝鮮で運行されていた私鉄とも緊密な連携を行っていた。
朝鮮鉄道の満鉄への経営委託
寺内は内閣総理大臣に就任した際、南満州鉄道株式会社に朝鮮鉄道の経営を委託することを実現。朝鮮と満州とを連結した鉄道政策や経済政策を実施し、満州と朝鮮の一本化を目的
経営委託により朝鮮総督府鉄道局が直営していた鉄道の経営やホテルの経営を南満州鉄道株式会社が行った。そのため、この時期の朝鮮の観光案内書やパンフレットの作成は南満州鉄道株式会社によって行われている。
朝鮮旅行のパンフレットは、経営主体が変わっても、その内容についてはそれほど変わっていない。南満州鉄道株式会社が発行していたこれらのパンフレットは、満鮮案内所などで配布されており、朝鮮旅行をする観光客の良い案内書であったことも同様である。
満韓巡遊船
併合前後から、満州・朝鮮への観光団が結成、日本から満州・朝鮮への観光旅行が数多く行われた。
朝日新聞社が主催した「満韓巡遊船」は、1906年30日間の日程で実施。朝日新聞紙上で大々的にこの企画が発表され、大変な人気ぶり。日本植民地初期の満州・朝鮮への視察・観光は、日清・日露戦争に勝利したプライドの確認と未開の国、遅れた国を植民地にすることの必然性、また発展させるための高揚を鼓舞するものであったと考えられるが、植民地統治が成熟して以降は、植民地政策の成功をアピールし、それを衆目のところとするための視察・観光に変質した。
満州・朝鮮への修学旅行
初期の修学旅行を実施した団体に師範学校が多かった。1884年10月17日に埼玉県師範学校の「擬行軍」が実施されるが、これが日本における修学旅行のはじまり、1887年になると、修学旅行は全国的に普及。修学旅行という名称が使われ始めるのは1886年である。修学旅行は、現在もしばしば用いられている「遠足」と、軍事的なイメージの浮かぶ「行軍」の総称であった。修学旅行の対象地は、当初は博物館、動物園など。海外への最初の修学旅行は、1896年に行われた兵庫県立豊岡中学校の満鮮旅行。1906年7月13日には、文部省と陸軍省の共同事業により全国中学校合同満州旅行が実施。朝鮮への修学旅行は、1920年代に入ると益々増加。1920年7月号の『朝鮮』には、同年5月の1か月間の国有列車利用団体旅行客は21,408人で、そのうち学生団体は16,900人であったとの記事が掲載されている。夏季・冬季休業中でもない5月に、これほど多くの団体学生が旅行をしていたことから考えると、朝鮮への修学旅行はかなり一般化されていたということが伺われる。
朝鮮人の日本への観光
朝鮮総督府は、日本人に対する満州・朝鮮旅行の斡旋を進めたのと同様に、朝鮮人や満州の中国人に対する日本への観光旅行を積極的に推し進めた。朝鮮人に対する最初の内地への観光団は、韓国併合直前の1909年に『京城日報』が主催観光団のメンバーはいずれも韓国政界の有力者で、しかも親日的な一進会に属するものは一人もおらず、反日的傾向が強い大韓協会員が八割方を占めていた。日本の発達した工業施設や軍事施設を参観させることで、日本に対する対抗意識を恐怖心に転化させるという狙いがあったということである。植民地下の国民に対して内地観光団を結成し、内地観光を積極的に支援したのは朝鮮・満州や台湾のみならず、南洋群島でも行なわれて。植民地朝鮮の内地観光団に対して、朝鮮総督府が積極的な奨励と支援を行っていたことと同様に、南洋群島においても当時、その初期の南洋群島統治機関である、臨時南洋群島防備隊によって積極的な奨励と支援が行われていた。内地観光は、当時の日本政府の普遍的な方針であり、その目的も日本の優越性を実感させることにより、日本への帰服を促すということが背景にあったのである。
女性を活用した植民地観光戦略
女性を利用した観光客誘致、朝鮮妓生は、朝鮮旅行を促す要因ともなった。妓生は、絵葉書だけではなく、様々な朝鮮旅行案内に多く使われていた。男性をターゲットとした、この妓生という性を利用した観光戦略は、個人観光客はもちろん、視察という名の観光団にも人気があった。妓生が日本人男性の朝鮮への観光客誘致に影響を与えたということ、またそれを背後で仕向けた朝鮮総督府鉄道局の性を利用した観光戦略は成功したということが言える
植民地と戦後の観光政策
日本人職員が帰国したことにより、戦後の朝鮮鉄道は朝鮮人職員にそのまま引き継がれ運営。1945年の終戦直前の時点で、朝鮮鉄道の朝鮮人従業員の割合は70%であった。むろんのこと、上級職員の割合は少なかったが、10%程度の割合は占めており、戦後の鉄道運営にもほとんど支障なく引き継がれた。鉄道以外の施設や宿泊施設など、植民地時代に整備されていた観光インフラや植民地時代に開発された観光名所、温泉施設などもそのまま引き継がれ、韓国政府に利用されることによって、1970年代から1980年代までの韓国では、とりわけ外国人観光客誘致に積極的であった。
戦後の日本人男性観光客風俗店就業証明書
日本人男性観光客の誘致が国家政策。韓国人には厳しく取締りをしていた行為も外国人観光客には寛大。外国人観光客を相手にしていた女性には、「風俗店就業証明書」を発行し、ホテルの出入りが黙認され、深夜の12時になると通行禁止が実施されていた当時、この証明書さえあれば通行が許可されるという配慮までなされていた。政府が公に外国人観光客に勧めたわけではないが、外貨獲得という名目で性が商品化された。
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