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QUORAにみる歴史認識 アルメニア虐殺

公開日: : 最終更新日:2023/06/14 出版・講義資料, 歴史認識

アルメニア虐殺の歴史的背景はあまり知らてないように思いますが、20世紀の悲惨な虐殺の一ページとして覚えられていて欲しいと私は思ってます。Rem Ogaki·44分前米国弁護士、法学博士アルメニア人虐殺はなぜ起きたのですか?

150万人のアルメニア人がトルコで殺されたアルメニア虐殺はオスマン帝国の崩壊、アルメニア独立運動・平等運動、バルカン地方でのイスラム教徒の迫害に対する復讐心等が背景にあります。

銃殺、毒殺、焼殺、溺死された人々も何万人といましたが、大多数の犠牲者は「強制移住」の名の下に満足な水や食べ物を与えられずに砂漠地方を行進させられ、餓死・渇死していきました。

(道端で死に絶えたアルメニア人、1915年)

オスマン帝国とアルメニア人

近代トルコの母体である「オスマン帝国」はトルコ人に主に治められていましたが、広大な領地には多くの人種的・宗教的少数民族が存在しました。アルメニア地方・アルメニア人はその一部でした。

(赤い丸:アルメニア地方)

アルメニア地方は16世紀にオスマン帝国に征服され、その時に「西アルメニア」と「東アルメニア」に分けられ、西アルメニアはオスマン帝国の領土となりました。

(トルコ内の西アルメニア(黄色)と現アルメニア(橙))

結果、多くのアルメニア人はオスマン帝国の住民となった事で、以後数百年の間西アルメニア地方だけでなく、現トルコの様々な地域にも移住し、多くの場所で生活をしていました。当初アルメニア人はオスマン帝国に協力的であり、キリスト教徒であるので2級市民として扱われていたが、2級市民の内では良い扱いを受け、ある程度自由に帝国内を移住していた。しかし、19世紀に入り、大きく事態は変わり始めた。ナショナリズムの思想等が広がり、アルメニア人の若者、特に知識階級の人間は不平等な扱いに反抗を始めた。

アルメニア人に特に重くかけられる重税や時に兵士に強要されるイスラム教改宗、黙認される兵士の略奪等に対する抗議が政府に向けられるようになり、アルメニア人の法的平等、もしくは西アルメニアの独立を、と言う声が上がった。


さらにトルコ人を追い詰めていたのはオスマン帝国の急速な崩壊であった。19世紀にはギリシャ、ブルガリア、セルビア等が次々に独立に成功し、特にロシアが積極的に北よりオスマン領土を黒海沿いで取りつつあった。

なお、西欧列強はキリスト教徒であるアルメニア人の保護を試みたオスマン帝国に対する外交プレッシャー等をかけていた。ヨーロッパにおいてはオスマン帝国は1913-14年のバルカン戦争でほとんどのヨーロッパ領地を失っていた。

多くの領土を失った結果、トルコのナショナリストは「何としてもアナトリア半島の領土は死守せねば」と考えていました。

そのようなナショナリストにはアルメニア人はトルコに服従しない「トルコの土地に居座る異国人種」として敵対視され、「アルメニア人問題」等と呼ばれました。

なお、旧オスマン帝国領のイスラム教徒がバルカン地方や国会地方で迫害・虐殺を受けた事でアンチ・キリスト教徒の怒りがトルコ内で高まっていました。例えば、1864年~1870年の間、黒海北岸を占領したロシア帝国はチェルケス虐殺を行い、80万~150万のイスラム教チェルケス人が強制移住され、そのうち推定80万人が亡くなり、多くのチェルケス人が難民としてトルコに移住してきました。

このような事もあり、トルコ社会全体的にもキリスト教徒のアルメニア人を敵対視する世論が強まっていきました。


トルコの本格的な虐殺への踏切は第一次世界大戦と深く関連しました。1914年11月、オスマントルコは中央同盟国側として参戦し、英仏露に宣戦布告しました。トルコ軍はロシア領コーカサス地方に攻め込み、トルコ領内アルメニア人にコーカサス地方のロシア帝国住民アルメニア人に「トルコ軍と協力するように」と説得するように指示しました。

しかし、ロシア領内アルメニア人はロシア軍を支持し、なお根本的に時代遅れの武装と杜撰な訓練のトルコ軍の弱さやメチャクチャな作戦であった事(2万5千のトルコ兵が戦う前に凍死しました)もあり、トルコ軍は大敗します。

トルコ軍の司令官エンヴェル・パシャ将軍は「大敗はアルメニア人の裏切り者が現地のアルメニア人にトルコと敵対するように働きかけたからである」と言った事がアルメニア虐殺の引き金となった。


1915年~1923年の間、アナトリア半島中より組織的なアルメニア人の強制移住・虐殺が行われ、推定150万人ものアルメニア人が死亡した。1915年4月、アルメニア人著名人のイスタンブール(首都)追放令から始まり、当初ロシア領に近い地域のアルメニア一般人が強制移住のターゲットとされたが、急速に全国的なプログラムに拡大された。

移住先はシリア地方の砂漠地域、デリゾール市へと連れられ、多くが虐殺された。デリゾール市の住民達の多くはアルメニア人の虐殺に心を痛め、無事到着できた人物の一部を匿う事になるが、道中に何十万人単位が餓死・渇死した人物が大半であり、犠牲者の過半数がこのように死亡した。「死の行進」と呼ばれた。

(砂漠へとアルメニア人が死にに連れられた「死の行進」

デリゾール市付近には25の強制収容所が立てられ、到着したアルメニア人の多くが追い込まれました。これらの収容所では水と食料がほとんど支給されず、多くのアルメニア人が再び死んでいきました。

トルコ政府は現在もアルメニア虐殺が「虐殺」であったと認めず、アルメニア人はロシアのスパイであった、国防上敵対部族であった、故意に殺されたのではなく、餓死は仕方が無い問題であった、死亡者は僅かであった等の見解を示し、「虐殺は無かった」と言う解釈を公的に示し続ける。

しかし、当時からの資料において虐殺の証拠・証言は多く存在する。

たとえばトルコ同盟国のドイツ大使館資料にマンフレッド・ベルナゥ氏が目撃したアルメニア人強制収容所のリポートが現存する。

1915年末のベルナゥ氏のリポートによるとは強制収容所には6万人規模の集団墓地に無造作に埋め立てられており、さらにまだ埋められていない死体が山積みとなっていた。

450人の孤児が6平方メートルの小さなテントに入れられており、1日に一人わずか150グラムのパンのみしか食料が支給されてなかった。支給される僅かな水は汚染されており、赤痢にかかって死ぬ大量の人が毎日いた。「アブー・ヘレレラ」収容所では一日数百人の餓死者が出ており、収容内では騎馬兵が通ると、その落とした馬糞の中に僅かな麦が無いかと探す人が多く見かけた。

餓死・病死だけでなく、大量殺人も行われた。

トレビゾンド裁判所のファイルに残された証言に1918年12月5日でのハッサン・マルーフ少尉の証言が残される。東トルコにあるムシュ市にて「一番手っ取り早い女性・子供の対処方法は一か所に集めて火をかける事だった。」ムシュ市周辺の80の村にて1916年~1917年に行われ、推定8万人が焼死した。

溺死も多く行われた。黒海沿いの地域ではイタリア大使のジアンコーモ・ゴッリーニ氏やアメリカ大使のオスカー・ハイザー史は本国に大量のアルメニア人が常時船に乗せられ、黒海にて溺死させられていると双方1915年に報告している。トレビゾンド市の溺死者の数は5万人と推定されている。

これらの惨状は国際的に周知の事実であった。ニューヨーク・タイムズ紙等ではトルコ政府内の目撃者より:

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目撃者たちは何千人もの強制移住させられたアルメニア人が野営テントで眠り、キャラバンを組んで歩き続け、川ではボート等で移動する悲惨な光景を多く見ている。政府は数少ない場所のみで食料を支給しており、明らかに足りない。なので、これらの人々は自分から物乞いをして飢餓を凌ぐしかあらず、痩せ、乾いた土地で物乞いをしながら進んでいる。

当然ながら餓死者と病死者が多数であり、その数は容赦ない政府の扱いに倍増されている。強制移住者達は砂漠を右往左往歩かされ、その光景は奴隷商の如き。数少ない例外を除き、難民たちは一切の休息所が設けられず、多くが寒冷地より来た人物が暑い砂漠の中を食べ物も水も与えられずに歩かされている。生き残れる数少ない人物は政府に賄賂を渡せる人間だけである。

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トルコ同盟国ドイツの在士官オットー・ヴォン・ロッソー中将は1918年バトゥミ会議にてこのように説明した:「トルコ人達は「完全なるアルメニア人の虐殺」を試みている。トルコ政府のポリシーは、私の見た限りではアルメニア人の居住区より彼らを一掃し、皆殺しにしている。」

ロッソー中将の部下の若いアルミン・ヴェグナーはアルメニア虐殺の多くの写真を残した人物であり、声高にアルメニア虐殺を非難した。各地を回り、アルメニア人の虐殺の事実を記録する為にトルコ政府の規制を逃れ、写真を撮り続け、各国にその事実を伝えた、アルメニア人の救出を訴えた。

余談だが、ヴェグナー氏の人格が良く分かると思うが、ヴェグナー氏はドイツ人の国際人権の活動家として有名になっていったが、1930年代ナチスが彼の本国でユダヤ人の迫害を始めたら、ヴェグナー氏は公的にナチスを批判し、ヒトラーにユダヤ人迫害を非難する手紙まで送っている。ヴェグナー氏は当然ながらナチスに敵対視され、ゲシュタポに逮捕され、拷問を掛けられ、強制収容所に入れられた。幸い国際的に名の知れた人物でもあったので、国外追放扱いされ、ローマへと逃げ込み、偽名を使いながら第二次世界大戦’を生き残った。

ヴェグナー氏はイスラエルの「自分の命を懸けてユダヤ人の虐殺を止めようとした英雄」を称する「Righteous among nations」にも加えられている。

(若き日のヴェグナー氏)


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