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戦後70年の価値観が揺らいでいる」歴史家の加藤陽子氏、太平洋戦争からTPPとトランプ現象を紐解く   真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」                          三国同盟の見方 歴史は後から作られる例

公開日: : 最終更新日:2018/12/11 用語「人流」「観光」「ツーリズム」「ツーリスト」

/https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-yoko-kato_n_13349530.html

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平洋戦争の開戦から12月8日で75年を迎える。改めて、なぜ日本は戦争へと至ったのだろうか。

日本近現代史が専門の加藤陽子・東京大学教授は近著『戦争まで』で、1941年の太平洋戦争の前に、世界が日本に「どちらを選ぶのか」と真剣に問いかけてきた交渉事は3度あったと指摘する。「満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)」「日独伊三国同盟(1940年)」そして「日米交渉(1941年)」だ。

日本は、真に問われていた選択肢が何であったのかをつかめず、本来はあり得た可能性や回避可能な選択肢をみすみす逃した。ただ、「世界」の側が常に正しかったとも言えない。「世界」から選択を問われた日本がどんな対応をとったのか、それを正確に描くことは「未来を予測するのに役立つ」と加藤氏は語る。

「太平洋戦争は軍部の暴走といった単純な話の帰結ではない」と言う加藤氏に、その意味するところを聞いた。


■1つ目の岐路:満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)

柳条湖事件の現場を調査するリットン調査団

――1931年9月、柳条湖事件をきっかけに、日本は中国東北部を占領し、翌年に建国された満州国を承認しました。

この時期、陸軍は農村部で講演会を開き、農村不況にあえいでいた農民を動員していました。満州事変後の1カ月で165万人を集めたといいます。「満州に行けば旦那になれる」「子どもを高校にやれる」といった軍の説明に、「戦争になれば景気がよくなる」と喜ぶ農民の声などが記録されていました。

本来は、重い軍事費が生活関連予算を圧迫していたのですが、一部の農民の目には「自らの要求を聞いてくれるのは軍部なのだ」といった誤った幻想が広がっていったのです。

では、社会の上層部の人々はどうだったかといえば、彼らとて軍にはノーと言えませんでした。一つにテロの脅威があった。32年に三井財閥の総帥、団琢磨(だん・たくま)が白昼、三井本館前で射殺された「血盟団事件」をご存じでしょうか。団は、満州事変調査のため来日したリットン卿と会った翌日暗殺されています。

このようにまずテロによる萎縮が指摘できますが、他に見ておくべき要因として、社会の上層部の人々と一般国民との間に「共通の言葉」がなかったことも大きかった。

――「共通の言葉」とは?

「共通の認識」と言い換えてもいいでしょう。例えば満州事変が起きた時、軍部は「これで中国がこれまで守ってこなかった日本の条約上の権利が確保できる。これは良いことなのだ」と主張します。しかし、これに対し「いや待てよ」と考えた人もいたはずです。

南満州鉄道(満鉄)の上げる利益は5000万円でしたが、中国全体の貿易で日本は10億円の利益を上げている。「満州問題で中国と喧嘩するのは経済合理性に合わない」などと経済人は考えたでしょうただ、こういう判断ができる人がいても、それを説得的に一般の国民に説明する手立てがなかった。

石橋湛山清沢洌(きよさわ・きよし)などリベラルな言論人が、日本にとっての経済合理性から「小日本主義」「満蒙放棄論」などを主張していたことはよく知られています。しかし、彼らが記事を書いていた経済雑誌「東洋経済新報」などは、普通の国民が読むような雑誌ではありませんでした。この雑誌の広告欄には、三菱銀行や三井銀行など金融資本の総本山といった会社が並ぶ、そのような高級誌でした。

2つの階層が文化的思想的に交わっていなかったといえる。これは日本の教育の問題でした。社会の階層間をつなぐ、文化的な中間的な装置を欠く社会は、強固な決意を持ち、既成政党や財閥打破を掲げて国民を動員しようとした軍部のような存在の前に極めて脆弱でした。

――農民は新聞などをあまり読まなかったのでしょうか。

いえ、日本の新聞購読者数は同時代の他国と比べて非常に多かったと思います。ラジオ契約数も31年に100万だったものが、41年には600万となり、普及率も46%ほどになる。2軒に1軒ラジオがあった計算です。

1920年代生まれの方から聞いた話をご紹介しましょう。その方は農村部に住んでいて、太平洋戦争の開戦直後のラジオ放送を近所の人たちと聞いていたのだそうです。ただ、その時ふと、不思議に思ったと。

真珠湾攻撃では2人1組が搭乗した特殊潜航艇「甲標的」5基が参加し、9人が戦死したのですが、この時、大本営は戦死者9人を「九軍神」と称えました。ただ、私に話を聞かせてくれた方は、「2人1組が5基で参加して、軍神9人…あれっ?1人はどこに」と不思議に思ったそうです。1人は捕虜になっていたのですが、これは当時は伏せられている。

放送や紙面が軍国一色になった時代には、この方のように、かなり注意深く見聞きしないと、真理にたどりつくのは容易ではないということでしょう。検閲は当然ありましたが、新聞やラジオが率先して政府の議論を先取りすることなど多々ありました。

――満州事変の解決提案「リットン報告書」は、日本を追い込む内容だったのでしょうか。

まず、リットンに率いられた調査団は、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリアといった5大国委員から構成されていたことが大事です。すべて植民地を持った経験のある帝国でした。彼らは日中の全面衝突を回避し、東アジアの貿易が拡大し、自らの国の権益も安全に保たれればよい…その線での解決案を目指したはずです。

報告書は「張学良政権への復帰は認められない」と書く一方で、「現在の満州国そのままの存在も認めない」と書き、一見すると日本側に厳しいように見えます。しかし、将来この地域につくられるべき仕組みは「過激なる変更なくして現制度より進展」させうるとも書いていた。つまり「満州国の制度からスムーズに移行しうる制度だよ」と。

さらに、日本にとって好条件もあった。具体的には「新政権を現地に作るための諮問委員会メンバーの過半数を日本側とし、また外国人顧問のうち充分な割合を日本側が占めてよい」ともいうのです。

――満州国が日本の傀儡だと分かった上で、リットン報告書はかなり妥協していますね。

ただ、このあと日本は自らの首を締める愚を犯しました。1932年の1月、第一次上海事変が起こされます。満州事変から国際社会の目をそらすためとして、上海共同租界内で日本人僧侶が中国人に襲撃されたといった事件を日本側が作為し、これをきっかけに中国側との軍事衝突が起きます。(寺前:篠田正浩のスパイゾルゲでは日蓮宗が出てくる)

第一次上海事変で市街戦を展開する日本軍(1932年1月)

――中国との紛争を抱えている状態で、さらに日本は紛争を増やしたわけですよね。なぜそんなことを…。

満州事変に注がれている世界の目を逸らすためと言われていますが、この通説は余り説得的ではありません。

満州事変が起きた時、中国は、国際連盟規約第11条によって連盟に提訴しました。この11条での提訴の場合、紛争処理は理事会が担当します。まさに、1931年12月に理事会が派遣を決定したリットン報告書のラインで処理される訳です。

しかし、この後に上海事変が起こされると、中国は日本を規約第15条で提訴し直します。これは、国交断絶に至る恐れのある大きな紛争が起こった場合の規約です。11条と違って15条による提訴の場合、日本は最悪の場合、連盟の全加盟国から敵国と名指しされ、経済制裁を下される可能性も覚悟しなければならない条項でした。

担当する部署も、理事会ではなく、総会となります。出先の陸軍などはこのような連盟規約の構造を充分に知っていたのでしょうか。そうは思えません。

理事会と異なり、総会には加盟国全てが含まれます。15条での提訴では、紛争の解決案を書くメンバーも、リットンらの5大国委員ではなくなるわけです。上海事件後の日中紛争は、「19人委員会」が担当することになりました。ここには、グァテマラやパナマといった国も含まれる。確かに、日本側が憤っていたように、日中間の歴史的経緯について知らないと思われる中南米諸国なども関与することとなったのです。日本側は怒りますが、そもそも窮地に陥る根本的な要因を作ったのは日本側でした。

――結局、日中間の紛争に関与する国が多くなってしまった。

当時の連盟を支えていたのはイギリスでしたが、第一次世界大戦で敗北したドイツの復活を恐れるヨーロッパ諸国の安全保障上の懸念は、イギリスの対日態度にも影響を与えました。当初は日本に宥和的な態度をとっていたイギリスも変化していったのです。この「19人委員会」が書いた日中紛争解決案は、リットン報告書よりも日本に対して厳しい内容でした。

――日本側はどう対応したのでしょうか?

意外かも知れませんが、全権の松岡洋右は粘りに粘って交渉しました。ただ、主たる交渉の向かう先が本国の外務大臣、内田康哉であったことは悲劇でした。イギリスの仲介や中国政府内の対日妥協派の態度に望みをかけていた内田外相は、連盟の「19人委員会」がまとめた解決案に妥協すべきだとの、松岡全権のもっともな要請を拒絶し続けたのです。

33年1月、松岡は「物は八分目にてこらゆるがよし」とし、「脱退のやむなきにいたるがごときことは、遺憾ながらあえてこれをとらず」と述べ、妥協を内田に薦めます。しかし、内田は、日本側が強硬に主張し続ければ、イギリスと中国は最後に日本に屈服するとして、最後まで妥協を許しませんでした。

松岡洋右

――なぜ内田外相は、二国間協議でいけると楽観的だったのでしょうか。

中国の国民政府内に、汪兆銘など対日妥協派がいたのは事実です。この勢力に内田は賭けたといえる。ただ、外相としての内田が時代遅れとなっていたのも事実です。

内田の外相デビューは第二次西園寺公望内閣の時、明治から大正の変わり目の頃でした。2回目の外相は原敬内閣時代、大正半ばのこと。1930年代の中国の動静にどれだけ内田が通じていたか疑問です。軍事と政治の双方の権力を握っていたのは蔣介石でした。

――いわば、蔣介石の独裁ですよね。汪兆銘に実質的な権力はなかった。

そうです。そして、満州における政治と軍事の実権は、張作霖の子息である張学良がなおも握っていたはずです。蔣介石にとっては、満州(東三省)に対し、実質的に関与できるのは外交権しかない。ですから蔣介石からすれば、連盟の「公理」に訴えること、つまり中国の外交権を代表する者として満州問題を扱うしかなかった。連盟に対する蔣介石のスタンスを内田は理解していなかったと思います。

蔣介石(左)と汪兆銘

当時の日本政府もジャーナリズムも、32年10月に公表されたリットン報告書に対し、中国側に肩入れしたものという評価を下し、その内容を精査せず徹底的に批判しました。私が惜しいと思うのはそこで、リットン報告書が展開していた日本側への妥協的な選択肢を見ていなかった。

日本側は、「リットン報告書が満州国の存在を認めている」との根拠のない楽観的な下馬評を信じていたため、実際に報告書が出た時には狼狽し、文書の正確な含意を読み取ることができませんでした。

■2つ目の岐路:日独伊三国同盟(1940年)

日独伊三国同盟の調印式


――三国同盟については、日本ではよく「快進撃を続けるドイツと結ぶことで『バスに乗り遅れるな』」と、勝ち馬に乗ろうしたという文脈で語られる思います。

たしかにそれは間違いとは言えませんが、当時の政策決定者の視点が抜けています。

日本がドイツとの同盟を選んだ理由は、大西洋と太平洋でアメリカを牽制するためにあったのではありません。むしろ、ドイツが電撃戦で降伏させたオランダやフランスが東南アジアに持っていた植民地の処分問題が日本側の念頭にあった。オランダ領東インドの石油、フランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)の米などは、総力戦を支える資源として重要でした。

三国同盟調印の2カ月間前(1940年7月)、外務省と陸海軍の担当者が参集し、何を話し合っていたかといえば「ドイツの勝利で第二次世界大戦が終了してしまった場合どうなるか」ということです。(スパイゾルゲでは、日本軍部がドイツ軍部と話をしているので、中日ドイツ大使館もドイツ本省とホットラインを持ちたいとゾルゲに暗号作成を依頼しているシーンがある。どちらも二重外交である。)

会議には、大臣・次官ではなく課長級、軍で言えば佐官級の40歳前後の人が参集していましたが、彼らの頭には、日本がいまだ参戦もしていないうちに、ドイツの勝利で第二次世界大戦が終わってしまったら、ドイツが敗北させた宗主国(オランダやフランス)が持っていた植民地、つまり、東南アジアや太平洋の植民地が、ドイツに獲られてしまうという危機感だけがありました。

第一次世界大戦後に、連合国の一員であった日本が、英仏と共に何をやったかといえば、敗戦国ドイツが持っていた植民地を山分けした訳です。むろん、名前は、植民地ではなく委任統治領という名称にしていましたが。

――ということは、日本が三国同盟で牽制したかったのはアメリカではなく…。

日本が警戒していたのは、ドイツでした。ドイツの東南アジア進出を牽制したいがための同盟締結だと言えます。陸海軍の軍人たちがいかにドイツ側を警戒していたか、その発言も残っています。

――――この頃から日本は「大東亜」という言葉を使い始め、三国同盟にも「大東亜における新秩序建設」という言葉があります。この「大東亜」って何を意味するのでしょうか。

「大東亜新秩序建設」という言葉が、なぜ使われ始めたか。東北学院大学教授の河西晃祐さんは「植民地宗主国を抑えたドイツによる、東南アジア植民地の再編成の可能性を、参戦もしていない日本が封じるための声明として」という見解を唱えています。来たるべき講和会議に、ドイツ・イタリアの同盟国として日本が乗り込む時、このような声明が有効だというのでしょう。鋭い見方ですね。

――となると、「大東亜」という言葉は三国同盟を結ぶにあたって、日本の勢力圏をドイツにアピールするために作られたような言葉っていう解釈でしょうか。

そうなります。軍事同盟に必須な三要件といえば、第一に勢力圏、第二に援助義務、第三に仮想敵国です。ドイツの勢力を東南アジアから排除するには、勢力圏を設定しうる同盟を締結するのが一番便利、といった発想でしょうか。そのための「大東亜」という用語でした。

――大急ぎも大急ぎで、三国同盟はたった交渉開始から20日間でつくられるんですよね。

この時期の出来事の時系列を整理しておきましょう。1940年9月7日、ドイツはイギリス本土への空爆を開始します。いわゆるバトル・オブ・ブリテンです。

ドイツ軍の空襲を受けたロンドン

先ほども述べましたが、同じころドイツは日本を同盟に誘いイギリスに最後の圧力をかけるため、スターマーを日本へ送ります。スターマーは、すぐに日本側と同盟交渉を始めました。

そして9月19日に御前会議、26日に枢密院(天皇の諮詢に応えて重要国務を審議する機関)での条約承認、翌27日にはベルリンで三国同盟の締結と動きます。驚くべきは、来日から条約締結までわずか20日間だったことですね。枢密院での審査はたった1日です。

――ドイツのアジア回帰を牽制するため、急いで三国同盟を結びましたが、結局ドイツはバトル・オブ・ブリテンでイギリスに勝てなかった。

日本は、大戦がドイツの勝利で終わることを危惧し、そこから発して「大東亜」という概念を作り上げ、勢力圏設定のための同盟を構想し、イギリスを屈服させるためのバトル・オブ・ブリテンに間に合うよう同盟を締結した。

日本が南方の石油資源と基地を手に入れたいというのはわかります。しかし、これは「小」なる価値ではなかったでしょうか。手に入れたい価値と、そのための対価(アメリカを仮想敵国とすること)が、余りにも引き合わないことになぜ気づかなかったのでしょうか。

ドイツの勝利がすぐに確実に起こると思われていた。起こりうべきことが起こらない、起こるベからざることが起こるというのは、昨今では想像しやすいかもしれません。2016年6月のイギリスのEU離脱、同年11月のトランプ米大統領誕生などはその最たるものです。

■3つ目の岐路:日米交渉(1941年4月〜11月)

左から近衛文麿、野村吉三郎、フランクリン・ルーズベルト、コーデル・ハル

――そして3つ目ですが、戦争回避のラストチャンスとして日米交渉があった。

日独伊三国同盟の締結からおよそ半年経った1941年4月、アメリカのハル国務長官と駐米日本大使の野村吉三郎との間で、日米交渉が始まりました。最終的には7カ月後の11月26日、アメリカから「ハル・ノート」(日本側提案に対するアメリカ側回答)が手渡され、その内容が予想以上の厳しさだったことから、日本側は開戦を決意し、対英米開戦(1941年12月)に踏み切ります。

当時、ハルとルーズベルト大統領は、戦争回避のための対日交渉を2人の専権事項として進めていました。当時のアメリカは対ドイツ戦を単独で戦うイギリスを支援するため、また大西洋方面での防衛強化のため、太平洋での日本との対立を当面回避する必要がありました。また日本にとっては、泥沼化した日中戦争終結のため、蔣介石との和平をアメリカに仲介させようという目論見があったのです。

また、日米両国には、交渉しなければならない懸案がありました。それはアメリカが1941年3月に制定した武器貸与法から生じてきた問題です。

この法律によってアメリカは、イギリスに対するあらゆる武器援助が可能となりました。ただ、このようなアメリカの行動が、三国同盟を発動させてしまわないかという問題が浮上してきたのです。

三国同盟はその第3条に、日本・ドイツ・イタリアのいずれか一国がアメリカ(名指しはしていない)から「攻撃」された時、武力行使を含めた援助義務を三国に生じさせます。「攻撃」にいかなる行動が入るのかがわからなければ、日本もアメリカも安心して艦艇を航行させられません。日米双方とも、不用意な暴発を防ぐために、三国同盟第3条の中味を検討するための交渉が必要でした。

――日米とも衝突は避けたかったけど、実際には戦争へと至りました。なぜでしょうか。

いくつかの答えがあります。一つには、最も有望視された近衛文麿首相とルーズベルト大統領の洋上会談計画が、日本国内の国家主義勢力に漏れ、極めて効果的な批判がなされ、つぶされたからです。彼らは近衛首相のことを、「ユダヤ的金権幕府を構成して皇国を私(わたくし)」する勢力の傀儡だと批判しました。

日米交渉をつぶしたかった国家主義者たちは、幕末維新期における幕府が天皇の条約勅許を待たずに開国した非を思い出させるような口調で非難します。近衛の対米交渉は屈服にほかならず、そのような政府は「討幕」すべきだと批判したのです。

また、1930年代を通じて反米・反英的な言葉を弄することを政府から教えられてきた新聞や雑誌などは、急に当局が「反米的なことは書くな」と通達しても、すぐには動けなかった。政府の意に反して、ハルやルーズベルトに対する批判が日本側の新聞紙上に執拗に載り続けました。

――それでも「ハルとルーズベルトに日本は追い詰められた」という話が未だに残っているように思います。

ハル(左)と野村吉三郎

現在では日米双方の記録が明らかになっていますので、ハルやルーズベルトが1941年8月あたりまで近衛首相との洋上会談を含めて乗り気であったことは確かなのです。しかし41年7月、日本軍が南部仏印フランス領インドシナの中南部)に進駐すると、その日本側の行動自体が交渉に大きな影響を与えました。

日本側は自らが用いる「進駐」という言葉に自ら惑わされました。フランスのヴィシー政権側や仏印総督側から交渉の結果、許可された「進駐」なのだと自認してしまったのでしょう。でもこれは、この地域の飛行場や港湾を制圧することを目的とした作戦行動でした。日本側は「進駐」であって戦争行為だとはつゆほども思ってない。しかしアメリカ側から見れば、万単位の部隊が飛行場と港を制圧すれば、それは「侵略」に他ならない訳です。

――日米交渉中にもかかわらず、なぜ日本は南部仏印に進駐したのでしょうか。アメリカを刺激すると気付きそうですが…。

これには南部仏印に進駐する1年前、1940年9月に日本が行なった北部仏印(フランス領インドシナ北部)への進駐時の、アメリカの対応がカギとなります。フランスのドイツ降伏を受け、日本は北部仏印へ進駐します。日本はフランス側と交渉をした上で進駐しました。

この時、アメリカはどう対応したかといえば、日本へ圧力はかけたものの、ある意味、計算された圧力のかけ方を選んだ。日本側はアメリカから戦略物資である石油や屑鉄(鋼材の原料)を輸入していましたが、その輸入を許可制にしたのです。

許可制や禁輸といえば一見強硬ですが、この時アメリカは日本の飛行機が用いない「オクタン価87以上の航空機用ガソリン」と「潤滑油」のみを禁輸としました。ハルがいた国務省などは、「厳しい経済制裁や禁輸を日本に課せば、それは日本に南進や開戦の口実を与えるだけだ」と考えていたのです。

日本側は、1年前の北部仏印の時のアメリカ側の対応から類推し、南部仏印への対応を甘く予測しました。しかし、41年7月の日本の南部仏印進駐に対しては、対日輸出の全面禁輸という方策に出たのです。

1941年、サイゴン市内の日本軍

――なぜこの時は全面禁輸になったのでしょうか?これまでのハルやルーズベルトの姿勢とは異なります。

実はここが面白いところで…。40年7月に日本が北部仏印に進駐したとき、ルーズベルトやハルに対して、財務省のモーゲンソーなど対日強硬派からは、「敵国日本に、なぜアメリカにとっても必須の航空用ガソリンなど輸出し続けるのか」といった批判が出ました。そのため、オクタン価での制限などの措置が取られた訳です。

ところが41年7月、日本の南部仏印進駐時には、アメリカ国内状況に変化が起きていた。41年夏、ルーズベルトとハルはワシントンを離れていました。

この2人の不在時に暗躍したのが、先のモーゲンソーです。彼は対日強硬派が影響力を持ちうる、外国資産管理委員会という機関に、禁輸に関する職務を専管させるようにしてしまいます。

ハルの国務省とルーズベルト大統領は、この委員会が対日資産の全面凍結と全面禁輸を実施していたことを、日本の野村大使からクレームがつけられるまで、なんと知らなかったのです。アメリカ側にも官僚制の対立があり、対日態度の差異による権力闘争があったということです。

フランクリン・ルーズベルト(左)とモーゲンソー

――こうして3つの失敗を見ると、日本側の見通しの甘さというか、目算の甘さというのが如実に目立つ気がします。

見通しが甘いということではアメリカ側も同様で、日本側に強硬に出た理由は「資源に乏しく劣勢の海軍力しか持たない日本が、英米に対する戦争を始めるはずがない」と考えていました。アメリカ側の抑止の失敗が、日本の開戦決意でもあった訳です。日本側の失敗を反省するのは大事なのですが、ここで正しい反省の仕方をしないと、また同じ失敗を繰り返すだけです。

私がこの3つの岐路に関して詳しく分析した理由は、「国や個人が選択を求められる場合に重要なのは、問題の本質が正しいかたちで選択肢に反映されているのか」という点をチェックすることだと思うからです。

当時の軍部やジャーナリズムが誘導した見せかけの選択肢ではなく、世界が日本に示した本当の選択肢の形と内容を明らかにしつつ、日本側が対置した選択肢の形と内容について正確に再現することです。実のところ、太平洋戦争への道を回避する選択肢はたくさんありました。

――かつて加藤さんは「8月15日というのは、日本人が戦後歩んできた平和を噛み締める日だ」と定義していました。では、開戦の日となった12月8日は、国民にとってどんな意義がある日でしょうか。

太平洋戦争の奇襲攻撃という側面については、国民はやはり関与できてなかった。国民の多くは対英米強硬論に与しつつ、同時に「戦争はぎりぎりのところで回避されるのでは」との希望的観測をも抱いていたのではないでしょうか。そのような意味で12月8日は、「国民が国家の行く末に十全に関われなかった」ことを噛み締める日だと思います。

「軍部の失敗」という総括は、現在、戦前期の軍部と同様の組織がない以上、実のところ痛くもかゆくもない総括です。そうではなく、社会に溢れている見せかけの選択肢を「本当の選択肢は何だったか」と置き換えて考える癖、言い換えれば「歴史に立ち会う際の作法」というもの、これが3つの失敗の事例から学べるものだと思います。

加藤陽子(かとう・ようこ)1960年、埼玉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科教授。1989年、東京大学大学院博士課程修了。山梨大学助教授、スタンフォード大学フーバー研究所訪問研究員などを経て現職。専攻は日本近現代史。2010年に『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で小林秀雄賞受賞。著書に『徴兵制と近代日本』『戦争の日本近現代史』『戦争の論理』『戦争を読む』『満州事変から日中戦争へ』『昭和天皇と戦争の世紀』など多数。近著に『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』

/霞ヶ関批判は楽ですし、人々から人気がありますね。しかし、日本のような公平な試験任用によって支えられている官僚制度を持つ国も、あまりないのでは。ですので、今回のTPP協定に登場する附属書の留保の内容や「投資家と国家間の紛争処理(ISDS)」の問題点など、省庁を挙げた議論のとりまとめを、国民に前に示していただきたい。30章からなる協定全文の日本語訳が揃ったのも遅かった。交渉過程が秘密だったのですから、合意に至った後は国内に向けて早急に公開しなければ、国会での議論など間に合いません。1940年9月にたった20日間の協議で締結されてしまった日独伊三国軍事同盟も、枢密院の審査にかけられたのは、協定本文だけで、附属文書などは、審査の対象になっていなかった。拙速は、歴史に照らして何一つよいことはありません。

――日本が国際情勢の中で、リアルタイムでどういう状況に置かれているのか、今も昔も国民には見えにくい。

まさにそこです。TPP交渉と満州事変後の国際連盟での議論を比べたりすれば、お怒りになる方もでそうですが、1932年11月から、国際連盟での満州問題論議を任された日本全権団のことを思い出してみましょう。

日本の外務本省が、全権に与えていた指示は、実は穏やかなものでした。日本の既得権益を守る条約関係を継承する、日本軍を満州国に置けるよう認めさせるよう努めよ、と。ただ、連盟が日本を侵略国呼ばわりした場合、あるいは、日本と満州国が結んだ「日満議定書」の運用を拘束するような決議を行なった場合のみ、極力争えと指示していました。リットン報告書が出たとたん、排撃すべしと声高に叫んだ朝野の雰囲気と外務省の方針は、本当は異なっていた。

しかし、そのような外務本省の方針は、国民の前には隠されていたのです。むろん、外交交渉には秘密がつきものです。しかし、国の意図するところを、秘密にすべきところは守りつつ、方向性を国民に正確に伝えることはできたはずでした。

ですから、先に述べたような問いを立てつつ、状況の変化を待つ。そうせずに、「日本が参加することで、アメリカにも参加を促す」のは無謀です。

――日独伊三国同盟が20日間で作られたという話を考えると、TPPもアメリカが脱退すると宣言している状況で急ぐのはどうか…と思ってしまいます。

歴史は一回性ですので、容易な比較をしてはなりませんが、待つことの重要性を示唆するにはよいかもしれません。バトル・オブ・ブリテンの結果など、やはり待てばよかったと言えましょう。三国同盟締結があと一月遅れていれば…と思います。

詮方ない話ですが、1941年12月8日の真珠湾攻撃についても、この日は、まさにドイツ軍が初めてソ連軍の反撃によってモスクワ近郊から後退した日でした。独ソ戦は既に1941年6月に開始されていたのですから、ソ連軍の反攻を見きわめて対応して欲しかった。

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イギリス軍の空軍司令所

――ちょっと狡猾な気がしますね(笑)

そうですね。ただ、賢明な狡猾さというものも歴史的にはあってよいと思います。

たしかに、気象条件や石油の備蓄量から、アメリカへの奇襲攻撃が可能な下限は決まっていたでしょう。ただ、ではなぜ奇襲攻撃で開戦しなければならないかと詰めて考えれば、それは、軍需物資をまさに敵国アメリカに依存する日本にとって、対英米戦とは短期決戦以外になかったからです。

1923年の帝国国防方針では、直近の第一次世界大戦の教訓は活かされず、持久戦争必至の総力戦時代に日本が生き延びる方策は、緒戦の圧勝による敵の戦意喪失しかないとの硬直した戦略が選択されてしまいました。

ならばもし、緒戦の圧勝が不可能な場合はどうするかという、次の手を柔軟に考えてもよかったのではないか。その中には、できるだけ戦争に参加しないように待つ、という選択肢があってもよいはずですね。日露戦争の実戦に参加し、のちに批評家に転じた水野広徳は、1929年の著作で、「戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代においては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐが如き他力本願の国防は…戦争国家として致命的弱点」を持つのだから、日本は戦争する資格のない国、と喝破していました。

■天皇陛下の譲位への対応は「国会」で

――8月には天皇陛下が自ら、譲位を望むお気持ちをビデオメッセージで出されました。加藤さんはどう感じましたか。

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8月8日、天皇陛下はビデオメッセージでお気持ちを表明した

私は1960年生まれなので、終戦の玉音放送は歴史上の世界なのですが、固唾を飲んで見守るという表現が実感として初めてわかりました。

昨年あたりまで、安倍内閣が成立させた安全保障関連法案がらみで、日本国憲法第二章「戦争の放棄」「平和主義」にばかり目が向いていたのですが、このメッセージによって、新たに気づかされたことがありました。圧倒的な武力で日本を打倒したアメリカ占領当局が目指したのは、「象徴天皇制」と「平和主義」、2つの柱だったということです。

憲法第9条の意義については、憲法制定当時から現代に至るまで、それこそ入念に議論がなされ続けてきましたが、象徴天皇制、特に象徴とは何かという問いについては、迂闊なことに戦後の一時期を除いては考えられてこなかったといえる。昭和天皇と今上天皇の存在それ自体に、国民は安心しきっていたというのが正直なところでしょうか。

しかし、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」天皇の地位については、平和な戦後を長らく生きてきた国民の側からも、改めて考えなければならない、と気づかされました。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』『戦争まで』でも論じましたが、戦争の究極の目的は、相手国の基本的な社会秩序(=憲法)に手を突っ込んで書き換えることにあります。戦前期の国体(=天皇制)を、アメリカ側は見事に書き換えた。

しかし、日本国憲法第二章の戦争放棄に関する条文に比べ、第一章の天皇に関する条文については、1946年時点の宮内省、枢密院、政府内の守旧派の影響力も強く、アメリカ側の思惑は貫徹しなかったのではないか。日本側の思惑に主導され、憲法第2条には「国会の議決した皇室典範の定めるところ」と定めますが、実際のところ法律である皇室典範に何が書かれたかというところまでは、掴めていなかったのではないか。戦後の精神に従って、新皇室典範が定められたかといえば、そうではない部分もあった。

現在の皇室典範は、厳密に言えば、「”国会”の議決した皇室典範」ではないのです。新憲法が、大日本帝国憲法の修正手続きで出来たように、皇室典範も、貴族院・衆議院からなる”帝国議会“という旧来の制度下に成立したのです。ただ、当時の帝国議会議員は真面目であって、「現在の議院は国会ではないのだから、新憲法が施行された後に国会が出来てから皇室典範を議論してはどうか」と述べる議員もいました。

また、皇室典範が議論された帝国議会の議論で興味深いのは、新しい憲法には、女性が天皇になってはいけないと書いてないということで、意外にも、女性天皇について容認する考えが委員会レベルでは多かったことです。1946年の第91回帝国議会の皇室典範案の審議では、「新憲法の精神からも、ただ女性であるということで皇位継承資格がないとする理由はなく、女性も皇位継承資格を有するようにすべき」といった議論もあった。当時は、憲法の規定に従おうという姿勢が顕著に見られたのです。

――終戦直後の議会は風通しが良かった。

憲法に書いてないということは、女性天皇は禁じられていない、との原則的な議論でした。今回の譲位への対応も、戦後の議会における空間を思い出す必要がありそうですね。今度こそ「”国会”の議決した皇室典範」を、改正法として、国権の最高機関である国会が定めればよいのです。

――終戦直後の議論が、天皇陛下の譲位へのヒントになりそうです。

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政府の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(2016年11月30日)

そうです。帝国議会も国会も議事録は完全に残されておりますし、デジタルで誰でもアクセスできます。内閣側も、国民の意見を代表しているとは言いがたい有識者を呼ぶことなどせず、まずは国会で皇室典範改正案の議論をすべきです。

■揺らぐ「戦後70年」の価値観

――参院選では改憲の現実味が増し、都知事選では敗北した鳥越俊太郎氏が「日本のリベラルは現実に負けている」と指摘しました。アメリカ大統領選では、右翼的な発言を続けたドナルド・トランプ氏が勝利しました。こうした現状を加藤さんはどう感じますか。

おそらく、戦後70年間続いてきた、欧米の普遍主義的な価値観の優位性が崩れたのだと思います。欧米は自らを利する自由貿易主義を掲げ、武力を用いてでも、地域主義的な経済圏を打破してきた訳ですが、彼らの行動に理があったのは、そこに、敵対者をも利する普遍主義的な価値観や自らを律する政治的公正さがあったからです。しかし、現在のイギリスやアメリカは、それらをかなぐり捨て、自国の利益を固守するような振る舞いを始めています。

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ただ、ここで地に落ちたのは、欧米流の普遍主義です。戦前期であれば指弾された、不満足国家としてのロシアや中国が、今後、自らが主導する秩序や論理を、なんらかの普遍主義的な思想で包んで世界に提示してこないとも限りません、そこは見所だと思います。

第二次世界大戦後というのは、フランスの経済学者ピケティがいうように、連合国であれ枢軸国であれ、極めて珍しいレベルの格差のない社会が生まれた時代でした。2000万の人間が犠牲となった大戦の後ゆえに誕生した、教育や賃金という側面で格差の少ない社会が、大戦後70年で終わりを告げたということです。

今後は、戦争という、最も残酷な平等創出装置を経ることなく、いかに格差の少ない社会にしていくか、その工夫が世界の人々の双肩にかかってきているのだと思います。

――日本でも7月の参院選で憲法改正が現実味を増し、戦後70年の価値観が揺らいできています。そもそも、日本が敗戦と新憲法によって得たものは何でしょうか。

日本国憲法は、連合国に敗北し、国家の基本的な秩序(=国体)を書き換えられた日本が、再び世界へ出ていくための、いわば「搭乗券」でした。1952年の独立回復前に、日本が旧植民地を含めたアジア地域との貿易を再開し、飢えずに生きていくには、日本国憲法という搭乗券が必要でした。

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日本国憲法原本「上諭」「御名御璽」と大臣の副署

さらに戦後の価値で重要だったのは、憲法11条の「基本的人権の享有」と13条の「個人の尊重」でしょう。戦前との比較で特に肝に銘じたいのは、13条「すべて国民は、個人として尊重される」の、「個人」の部分です。この「個人として」という意味は、たとえ国家が「戦争をやる」と意思決定をしたとしても、それに従わず、国家に対峙する自由が認められているということです。

戦前期の日本を顧みますと、英米に比し、武力で劣っていただけでなく、総力戦時代に国民の総力を真に結集しうる議会制度や民主的な制度を日本は欠いていました。個人として尊重されることの重さを尊重したい理由は、そこにあります。

――自民党の憲法改正草案では、13条の「個人として尊重される」の「個人」の部分が、単に「人」となっています。加藤さんは「戦争は、憲法を書き換えること」と述べましたが、それを変えようということは太平洋戦争の結果を否定することになるのでは…。

論理必然的にはそうなります。朝日新聞による2015年春の世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか「自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか」という問いに、「いまだ不十分だ」と答えた人が65%もいました(2015年4月18日付朝刊)。憲法を変えるのであれば、戦争の結果できた憲法ですから、その戦争自体について再定義しなければならなくなると思います。

――「戦争の再定義」というのは。

1937年の日中戦争から45年の敗戦までのあの戦争の位置付けを、もう一度考え直すということです。今でも、「日本は英・米・蘭から経済封鎖を受けたからやむにやまれず開戦を決意した」という説明がなされることがありますが、防衛戦争だったとの説明の仕方は、実のところ太平洋戦争中の1943年に、東條英機内閣の外相に就任した重光葵が意図的に採用したものでした。

太平洋戦争の再定義自体が、1943年〜44年の戦争中になされ始めたことが興味深いのです。もともとは英米側が1941年8月に戦争目的や戦後世界を語った声明に「大西洋憲章」がありました。それに匹敵するような論理を日本側も準備するため、またイタリアの降伏を目の当たりにして、戦後になされるかもしれない戦争裁判において、いかに説得力ある申し開きをするのか、そのための合理化が必要だったと思います。

事実、重光の主導で日本は1943年11月、欧米の植民地であったアジア諸国の指導者を集め、大東亜会議を開きました。「被支配民族の解放という英米の戦争目的は口先だけだが、日本側は確かに多くの国を独立させたではないか」と胸を張りました。しかし言うまでもなく、日本が太平洋戦争を開始したのは、東南アジアの植民地を独立させるためではなく、後付けの論理でした。

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大東亜会議に参加した各国首脳。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、チャンドラ・ボース

防衛戦争としての太平洋戦争イメージは、実のところ戦時中の再定義に起源を持つものでした。

これと似た理解として、2015年の「安倍談話」の、世界がブロック化したために日本側は戦争に追い込まれていったとの理解があります。この問題点は、『戦争まで』の第1章で論じておきましたので、ご興味がある方はご覧ください。

太平洋戦争は、戦争の渦中において既に再定義の試みが開始されていた戦争でした。そのことを噛み締め、今の私たちこそが、いま一度、あの戦争を再定義してみるべきでしょう。

加藤陽子(かとう・ようこ

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