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東アジア人流観光論の骨格(人口と人流)

公開日: : 最終更新日:2016/11/25 戦跡観光

○東アジアの人流を考える場合に、まずその地域の定住人口の推移を把握しておく必要がある。私は定住人口の時間的推移を人流の縦軸と呼んでいる。同時代の人口の空間的移動を人流の横軸とよんでいる。研究者は奴隷貿易でアフリカ大陸からアメリカ大陸にわたった人の数をおよそ1千万人と推計している。そのくらいに科学的研究をしているといいたいのである。人口歴史学なるジャンルも発生している。観光研究者もそれらの大きな枠の中のなかで観光活動の研究をしなければならないと認識している。

○人間は生活に不安がなく、満ち足りたくらしが保証されている場合は、何か事を起こそうとしたり、広い世界に目を向けたりしない。ヨーロッパに大航海時代が到来した理由もそこにある。当時のヨーロッパは人口過剰が深刻であった。農業の技術進歩がストップし、開墾運動も停滞した。13世紀半ばまで続いた農業的高度成長が終わりをつげ、低成長の時代に入る。穀物収穫量の伸び悩みとそれにもかかわらず人口の自然増とが重なって、穀物価格が高騰し始めた。家族全員が土地にしがみついて生活しなければならず、不可分・不処分の家産観念のもと、長男のみならず次男三男も食べる権利のあることを表現する分割相続の理念もともに形作られていった。17世紀のヨーロッパ人のアメリカへの移住は、自由を求めてというより、むしろ生き延びるための、旧大陸からの脱出であり、これによって悪疫とともに、結果として旧大陸の相対的な人口過剰状態が調節された。東洋において海禁政策がとられていた時代である。

○東アジアの観光を論じる目的は現在の歴史認識問題を考えたいということであるから、日本人、中国人、朝鮮人の概念を明確にしておかなければならないが、これらは文化的、政治的概念である。従って時代により、立場により大きく異なる。人によりアイヌ、沖縄、台湾人等の概念も成立する。歴史的には、「中国」という概念形成前は、日本も韓国も、大きな中国の一部、方言を喋る集団と思われていた。当然日本人という概念は生まれていなかった。 倭国から日本という国号への改名理由ひとつを取り上げても、日本人研究者の間では唐の脅威が薄らいでいった倭国が、臨戦態勢下で実現した大君(天皇)を中心とした律令体制を完成させることに成功し、制定するに到ったと認識するようであるが、中国人研究者は、倭国は唐朝中国との戦いに惨敗(白杉江の戦い)したあとの打撃を回避するためであった可能性が高いとする。立場により見解が異なるのである。本地垂迹説も、そのうえでの中国をみる日本人の姿勢をあらわした考え方であるとも思える。逆に日本と言う国は、大陸の文化が伝わることにより誕生したと表現したほうが、歴史的には正確である。これとは逆に、中国という国名は20世紀当初清朝、清国よりも次第に観念されるようになった。言葉としてはそれより古くから存在するが、「主権国家」的なコンテクストで使用されるようになった。日本はこの中国という呼称を正式に使用するに躊躇し、支那にこだわっていた。従って、人口の推移を論じるにあたっても、その集団のとらまえ方一つで共通認識を形成するには限界があることを踏まえたうえでの論議である。

○ 日本列島に居住する人口の推移は鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』表一(日本列島の地域人口:縄文早期~2100年)に記述されている。中国に居住する人口の推移は 広島大学加藤徹准教授の資料http://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html により入手できる。朝鮮韓国も含めての資料もhttp://www.linz.jp/worldpop/jp07/appendix1.html等がネットで簡便に入手できる。
 縄文時代中期の日本列島(沖縄、北海道を除く)の人口は25万人程度であるが、その95%は東日本に居住。弥生時代になり西日本のウェイトが高まる。日韓歴史共同研究報告書第3部(p447)において「天皇の徳化を欽慕して渡ってきた帰化人ではなく、日本民族の主役であり、創造的な開拓者と理解してもよいであろう」と記述する。現在ならDNA分析も可能であるから、今日の民衆的日韓の対立を解消できる可能性もある。
 本稿は人口そのものを論じる目的ではなく、人流観光を論じる目的であるから、日本と中国等の定住人口比率を先ず把握する。岡本隆司は17世紀前半、18世紀後半、それから1900年、2000年頃と何度か中国の人口が丁度十倍になっている事に注目する。つまり十倍を下回るときは日本が相対的に経済の成長期、中国が停滞期であり、上回る時は日本の方が停滞期(長期的には人口の成長と経済成長は平仄が合うから)であると判断する。朝鮮半島の人口と中国、日本の人口比を長期的に特徴づけることは困難である。
 8世紀末の日本列島には5.5百万人前後の人々が暮らしていた。同時期、唐王朝には5293万人の人口があり、朝鮮半島には紀元2年に180万人居住していたと推計される。その後長い間中国の人口は六千五百万人前後で推移してきた。
 16世紀の日本の人口は千二百万人前後であった。17世紀に新田開発等により3千万人に増加した。新しい村ができ城下町も建設。中国が増加した18世紀には日本は増加しなかったが朝鮮半島は六百万人に増加している。停滞(吉宗デフレ)気候寒冷化 生活水準上昇・少子化で人口調製 後半は農村豊かになる。朝鮮半島には1807年七百六十万人、1910年千三百万人の人口である。19世紀後半に人口倍増6千万になった。
○ さて、定住に対して人口移動であるが、西洋社会で見られたような大掛かりな人口移動を歴史的に認識できる現象は発見されていない。中国社会は漢民族の周辺地域に対する移住によってその領域を広げてきた。江浙地方の開発は魏晋南北朝に始まり、五代十国の諸王朝は揚子江下流に大規模な水利施設を構築 その後福建 明代には広東の珠江デルタの開発 明清時代 江西から両湖、四川、雲貴へと拡大16世紀ころにようやく1億を超えた。温暖な気候と政治的安定が重なった18世紀には1億五千万人から三億人に倍増した。17世紀 1億で停滞(康熙のデフレ)18世紀 3~4億に爆発(乾隆のインフレ)19世紀は4.5億で停滞していた。
○海外移住
その理由は相続制度 中国は徹底した均分相続であり、常に移住による新たな耕地の獲得が必要 江戸時代の日本、特に東日本は長子相続 父系原理の拡大が居住によって阻止され、一度外に出ればメンバーシップを失い後戻りできない、移住することのリスクがはるかに大きな社会であった。

○開国、開港、鎖国、朝貢、植民地と人口移動の始まり
 近年の日本史研究では「鎖国」概念の再検討が進み、キリスト教布教禁止目的の宗教政策より、明朝・李氏朝鮮でとられた「海禁政策」の一形態としてとらえるのが学界の共通理解。対外世界との遮断ではなく、幕府の貿易独占と出入国規制。
 東アジアの人流観光は、西洋と異なり、近世においてはその活動は停滞状態である。従って、鎖国論とそれに続く開国、開港論が発生する。日本、中国、朝鮮の違いは開国と開港の差だとする見解(岡本隆司著『近代中国と海関』)である。「開国・明治維新に先立つ江戸時代」を「近代の前提としてみる視座が定着してきた」のに対して「中国史の研究は」「遅れていて」「日本史のような視座はまだ定着していない」とする。日本は「鎖国」していたから西洋に遅れた、というのが一般的な理解である。しかし、江戸幕府が対外貿易を国家的に厳しく管理・統制していたからこそ、開国か攘夷かという形で国論が二分されることになった。「開国」は文字通り「国のかたち」そのものを一変させる大変革であり、清朝のような微修正で対応することはできなかった。この貿易問題を起爆剤として明治維新が実現したことを考えれば、(中国と違って)「鎖国」していたからこそ迅速に西洋化できた。欧米列強の通商要求に応じることは、日本にとっては「開国」、中国にとっては「開港」であった。清朝は政経分離の「小さな政府」であり、経済に関しては自由放任だったので、貿易体制だけを西洋に合わせて、政治体制を温存することが可能であったが、このため、清朝は政治の近代化に遅れてしまった。
 日本は、ペリー来航から明治維新まで15年の助走期間の年月をかけて開国した。朝鮮 開港は日本によってなされた。1876年の日本による強制開港から始まり1880年に日本公使館が設置された。「助走期間が5年と短すぎた」。東道西器論 しかし西洋化、開化の必要性を朝鮮民衆に認識させる段階になっていなかった。朝鮮人の知識層を支援していた福沢諭吉は、朝鮮で人民が日本公使館を襲撃したことにショックを受けたとされる。

○○「近世」の日本と中国
 中国の重要な特徴は国家と社会の隔絶である。清期の税財政の構造(14世紀元明交替の混乱で貨幣経済が機能しなくなった北方を維持するために、南方の商業経済から乖離した現物主義による徴税・財政を採用・継続したこと)と人口動態(都市化率の低さと、経済発展・人口増大・食糧不足による移住)にその原因を見出せる。「倭寇」も、現物主義を維持するための強引な貿易制限と、決済手段としての銀に対する中国国内の需要との矛盾に起因するものであった。カテゴリカルに「倭寇」と命名され、反日のプロトタイプになったという。社会に対する疎遠さが、外界に対する疎遠さにつながっている。日本では、統治者が被治者をきめこまかく収奪・保護する傾向が強く、「クローズド・システム」に基づく勤勉革命が幕末以前に達成していた。
○○籠谷直人による朝貢体制論
 西洋的なバイアスを批判して朝貢貿易システム論が登場し、アジア交易圏の自律性を強調する歴史的見方が存在する。海関論を通じて内在的な中国研究を促進刷る立場である。。現在の中国共産党の経済政策を理解するうえでも参考になる論点である。
 近世中国の経済的な統治のあり方は、何人かの商人をノミネートして、徴税と取引の責任を負わせることで市場を間接的に掌握した。この点が朝貢貿易システム論が着目する点である。こうした内地関を対外的な貿易にも活用したのが海関の起源である。本質的な問題は、貿易が(それに伴う 納税額が)これら商人の資力を超えてしまうと倒産を招き、機能しなくなることであった。資本を外国商社に仰ぎ、取引に特化した買辦が一つの解決策となるが、脱税の温床となる。徴税機構が腐敗したというよりは、徴税に特化した機構がなかったからである。1859年、上海当局(欽差大臣何桂清)が総税務司のポストを創設し、イギリス人を任命することで、徴税機能は整備された。折から、賠償金や外債の元利支払いのための財政需要が拡大し、関税はそのための貴重な安定的収入源となった。

(参考)大陸横断鉄道と日本、中国をめぐる人流
 南北戦争での戦病死者数は、七十一万九千人にのぼった。南北戦争時は日本では下関戦争をしている時期であるが、当時のアメリカの人口は三千四百万人で、日本の人口三千二百万人とほぼ同じだった。大陸横断鉄道の建設には支那人の苦力が多数用いられた。一八六九年に完成すると、労働者確保に苦労してきたクロッカーはシナ人労働者に感謝のことばを述べている。これがあったおかげで1874年から75年にかけて500人を超えるお雇い外国人が明治政府に招かれるようになった。江戸と鹿児島は移動に一か月を要したが、江戸とニューヨークも一か月で移動できるようになったのである。大陸横断鉄道が完成すると、カリフォルニアを中心にして、中国移民は、他に労働を求め、アイルランド移民と仕事を求めて衝突するようになり、1882年、清からの移民を認めない支那人排斥法を成立させた。この後、移民排斥は日本人に向かうようになった。
○朝鮮在住の日本人(七十万人の民間人と二十万人の軍隊)が本国ねほぼ引揚たのに比して、アメリカ在住の日本人や日本在住の朝鮮人(終戦時二百万人)がその地に残留した理由を、大西裕は日韓歴史共同研究報告書第4部第1章「帝国の形成・解体と住民管理」において分析している。日本は戸籍法と寄留法(住民基本台帳法)により居留民社会管理を国が行っていたが、それ以外は一度本籍から離れれば国家は把握できなくなる仕組みであった(治安維持目的は十分機能した)。日本では属地主義、朝鮮では属人主義を基本とし、1918年「共通法」により、本国日本人には属人主義により日本の法律を適用し、植民地人には属地主義により、それぞれ対応したことによる。その成立過程では、朝鮮総督府は反対したものの、徴兵義務を避けるために司法省が押し切った。

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