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戦前に観光が展開された時の日本の状況

公開日: : 最終更新日:2016/11/25 戦跡観光

日本の学会では1920年代の国際秩序をワシントン体制という概念で論じることが通例。1931年の満州事変で崩壊した。国際観光局はそのような局面で設置された
○戦争賠償金と観光資源
 1930年代は日本の観光「政策」が始まった時代と考えてよい。ではなぜその時期にはじまったのであろうか。政策である以上は政策目的がある。それは外貨獲得である。ではなぜ外貨獲得が重要政策になったのであろうか。国家財政と切り離しては考えることができない。
 勝海舟は氷川清話(p127 「日本の財政について」)のなかで「幕府の末年は、何のことはない、まるで今の朝鮮さ。金はない、力は弱い、そして人心は離反している。その隙間を見込んで外国に奴らが付け込んでくるという風で、・・・・しかしながら一時しのぎに外国から金を借りると言うことは、たとえ死んでもやるまいと決心した。・・・しかしその後慶喜さまの時になっては、とうとう幕府も往生して、はるばるフランスまで金を借りに行くことになった。・・・そこでご覧よ。朝鮮でもシナでも、今がちょうどわが国の幕末のとおりに、貧乏で弱りきって、金を外国から借りるという段になったのだが、さおこれからが本当に災いが襲ってくるのだ。」と語っている。朝鮮の事情はともかく、日本は日清戦争で清の歳入総額の2年半分に相当する賠償金の支払いを受けている(7年年賦で2億両(約3.1億円)から、中国の財政をとやかく言うのは問題かもしれない。 1896年度から1905年度の軍拡費は、総額3億1,324万円であった。使途の構成比は、陸軍が32.4%、海軍が67.6%。財源の構成比は、清の賠償金・還付報奨金が62.6%、租税が12.7%、公債金が24.7%であった。現代の日中平和条約締結後の解決策は、日清戦争時における賠償金のような形ではなく、日本政府からのODAという形によりなされた。日露戦争やシベリア出兵その後の武力衝突も金銭賠償が絡んだが、現実的な面もある。逆にいえば表向き金で解決できない分、今日のほうが取扱いが難しいのかもしれない。また勝海舟は、氷川清話のなかで、軍事費とのバランスも論じている。軍艦はとんでもない金食い虫と認識していたようである。
 賠償金は戦争の産物であるが、それらをめぐる逸話は観光資源になる。下関戦争は、幕末に長州藩と英仏蘭米の列強四国との間に起きた、1863年と1864年の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件である。無謀な戦いという意味では日米開戦と同様であった。賠償金300万ドルの支払を受け入れて講和が成立した。賠償金については長州藩ではなく幕府が請求された。巨額すぎて長州藩では支払不能であり、外国船攻撃は幕府が諸藩に通達した命令に従ったからだという名目でなされた。それだけ西欧列強に日本は弱かったのである。氷川清話なかで、幕末に各藩が発行した贋金の金への交換を新政府に諸外国が求めてきたときに、勝海舟は新政府の役人にどうせたいした額ではないだろうから支払ったほうがよいとアドバイスしているが、幕府の役人のメンタリティがでていて面白い。
 下関事件の賠償金のうち米国分については、アメリカ合衆国第18代大統領になった、ユリシーズ・S・グラント将軍の尽力で返還され、横浜築港(大桟橋)費用に充足された。お返しに日本政府は赤坂の土地を米国に貸与したが、これが現米国大使館の場所である。グラントは大統領退任後の1879年に世界視察旅行の最後の訪問地として日本に立寄った。東京の増上寺にはグラントの植樹した「グラント松」がある。日本とアメリカの関係が良好であるかぎり、これらの賠償金に関係するものは観光資源になる。日本と中国の賠償金の関係も同じであろう。
○第一次世界大戦の見方
 欧州では第二次大戦より第一次世界大戦のほうが歴史的に重要視されるが、観光政策を研究するにおいても同じである。移民の世紀が終了しビザパスポートシステムによる人の移動の規制が始まったからである。
 第一次大戦の後、関東大震災、恐慌等により、所有正貨が減少し、外債依存になった。こうして行財政整理、軍縮が叫ばれ、領土拡張よりも市場拡張に重点がおかれることとなった。国際観光局はそのような時期に設立された。 
 オーストリア・ハンガリー帝国は皇太子暗殺により、セルビアに宣戦を布告した。オーストリアの同盟国ドイツとセルビアの同盟国ロシア、フランスが参戦した。イギリスは参戦に消極的な姿勢であったが、トルコ石油等ドイツ権益の奪取目的により、ドイツが中立国のベルギーを残虐な植民地政策を行っているということで侵攻したことにより、参戦した。ドイツ軍の残虐性批判のプロパガンダを米国で展開し、民主主義の戦いのイメージつくりに成功し、勝利することとなった。現在のアラビア半島問題はイギリスが第一次大戦で勝利したことの産物である。ドイツは国内で戦闘を行為を展開することなく敗戦し、巨額の賠償金を課せられた。このことがナチスの台頭を導くことにもなったと言われている。経済的には米国、日本を利することとなったが、日本は戦争が総力戦になったという理解をできずに第二次大戦を戦うことになってしまった。
第二次世界大戦後の処理では、賠償金は外地資産に限定されたものの、国内の企業等への債務は当然残り、1945年度末二千億円の国債残高があった(インフレで実質は昭和13年度並みの水準であったが)。金融機関が六割、政府機関が三分の一保有していた。戦時補償債務(三菱重工、三井物産、満鉄等)五百六十億円。臨時軍需費特別会計が一般会計に引き継がれたのは二十一年二月末であった。戦争後も継続した理由は、七百二十万人(外地三百五十万人)の復員軍人への退職金、軍需産業への支払いがあったからである。外貨獲得のための外客誘致の必要性の一つもここに生まれたのである。
○ 近代化、洋風化の世相
 当時は、近年の傾向にもみられるように株主重視社会であった。社内格差も100倍と大きく、役員賞与は利益金の5~10%が常識であったようだ。戦前の社会主義の影響力はこうした構造を前提に伸長してきたようだ。豊かな層は豊かになる社会で、1923年に冷蔵の輸入が始まったが、1930年には東芝による国産が始まっている。都市人口が増加したのもこの時代である。交通網が発達し職住分離、郊外が発達した。1928年の大阪の人口は233万人と東京の221万人を超えていたが逆転するのは1932年に東京府と東京市が統合され東京都になった時で、それまで渋谷は豊多摩郡渋谷町であった。パリの市長が、ロンドンの外国人観光客が多いのはエリアがグレーターロンドンで統計をとるからだという構造もそこにある。1925年に山手線が開通し1927年には三分間隔運転が実施されている。飛行場は1924年には立川、1931年に羽田が開港している。1924年に大阪で円タクが開始され、東京は1927年に市内一円となった。この点は未だにメーターに固執している現代の方が遅れているようだ。箱根の有料道路は1932年に完成。1926年にNHKが設立された。ラジオによる野球の実況放送が行われている。1927年に岩波文庫が発行された。1931年に最初のトーキー映画「モロッコ」が字幕スーパーで上映された。
 昭和恐慌は1929年から二年間であるが、失業者は100万人で労働争議・小作争議が30万件発生している。東大卒の就職率でさえ30%であった。繭価が暴落し、農家の最大の副業が大打撃を受けた。1930は年大豊作で米価は暴落した。1932年欠食児童は文部省の発表では20万人であった。平均寿命は45歳前後、幼児死亡率が高かったのと、都会での結核が多かったからである。戦争の影響はないが日本人は短命であった。
 文化アパートメント、同潤会アパート、江戸川アパート等が建てられたのは、1925年から1935年頃まで、つまり国際観光局が設置され、外国人の誘致政策が始まったころである。三越が住宅も売ろうと住宅部を発足させたのも1930年のことである。しかし、洋館の中で洋式のくらしをするかというと「畳の上で手足を伸ばす感覚」であった。草柳大蔵はこのことを評して「昭和のモダニズムが住宅の分野で終始ぶつかっていたのは、「日本人の住まいの感覚」であったという(「洋館を目指して、進めや進め」草柳大蔵著『昭和天皇と秋刀魚』)。観光政策の主要テーマである「ホテルと旅館」の違いを考えるには、住いの洋風化を考えなければならないとこれまで主張してきた私の思想と一致する。
 そのホテルであるが「ホテルは儲からないものであるが、ホテルは一国の文化の基準、都市の対面をあらわす看板であり、政策面からも考えなければならない」と考えられていた。1942年11月号「「旅」
 鉄道省国際観光局発行において宮部幸三は、満鉄所有のホテルは、1907年度から10年間大幅な赤字であり、黒字は1917年度から5年間であった。その後一進一退である。外国人を念頭に、ヤマトホテルとネイミングし、日本の国力を見せることとしたと記述している。
 満洲の都市を、ハルピン、上海等の欧米列強による中国支配の拠点と比べて遜色のない都市、パリ、ベルリンと伍する世界都市として建設することにより、それによって満鉄の力量を列強に示す意図があった。さらに支配者として中国人に見せる演出の場であった。いわゆる文装的武装である(『満鉄とは何だったのか』(藤原書店
))鉄道付属地の経営により30年間の累積赤字は2億円を超えることとなり、しわ寄せが必要となった。その結果、高媛氏のホストとゲストのまなざしが発生したのである。

○ 日中戦争勃発による「幻のオリンピック」「幻の電化元年」
 1937年は戦前の民生、経済のピーク時である。36年に当時としては最も高層建築の国会議事堂が完成した。1936年にベルリン・オリンピックが開催された。ベルリン大会は世界が参加した最初のものといわれている。国際観光局も外客誘致のためオリンピック誘致に努め、1940年東京オリンックが開催されることとなったものの、1937年に日中戦争が勃発し、その結果38年7月に返上したため、「幻の東京オリンピック」となった。
 1967年に三種の神器(洗濯機、冷蔵庫、テレビ)の普及率が九割に達したことから、同年が電化元年とされている。日本が敗戦後二十年余で電化元年を迎えたその背景には、幻の電化元年があったことを山田正吾は『家電今昔物語』で明らかにしている。1937年アメリカのGEが日本の市場を調査し、冷蔵庫は6610台、洗濯機3917台、掃除機6610台と把握したうえで、その後の4年間の伸びをGEは冷蔵庫2.8倍、洗濯機4.9倍、掃除機4.7倍ルームクーラー9.2倍に増加すると予測していた。1940年のオリンピックが開催されれば、外国人観光客が多く来日し、生活の洋風化は更に進んでいたであろうから、山田は電化元年は二十年早く到来しただろうとしている。
 戦前の日本人庶民は本当は反米ではなく、親米であった。アメリカ軍はこのことを捕虜の聞き取り調査を通じて明らかにしている。アメリカ人の生活にメディアを通してあこがれていた事実をつかんだからである。草柳大蔵の「昭和天皇と秋刀魚」にも週刊朝日の記事が紹介されており、「兵隊さんの好きなお献立」はコロッケ、フライ、ビーフシチュー、オムレツとなっているから、庶民だけでなく兵隊さんも洋風化されていたのである。この1920年代から続いていた都市化、電化、アメリカ化の流れは「非常時」日本を通じて変わっていなかったが、日中戦争がすべてを変えていったのである。戦前・戦中も、本当のエリートや知識人でなくても、「日本は負ける」と言えた人はいた。では、なぜ気がつけたのかというと、たとえば一九二〇年代にアメリカ映画などにふれたことで、その背後にあるアメリカの文化を類推できた。(特別対談 加藤陽子(東京大学教授)×高木徹(NHKディレクター)「国際メディアと日本人」講談社 読書人「本」2014年6月号)
 日本の経済面で対米依存度が著しく高く、輸出四割(生糸、絹織物、陶磁器、茶)、輸入三割(綿花、木材、機械。鉄、小麦)である。日中戦争勃発後 戦前の安定的な圏内食料需給構造が崩れた。安定の前提である圏外供給が急減、途絶状態になる。日本、満州、中国で139万トン圏外輸入した小麦は、55万トンになった。
 統制の動きが出だしたのは1934年からである。物質的な面より精神的な面から始まった。国史学会の重鎮で貴族院議員が英語授業時間削減を主張。瑣末主義の始まりである。日中戦争が始まった日本では、銑鉄鋳物や銅製品の製造制限(商工省令)が実施され、門柱・扉・持送り・手摺・柵・窓格子・上下げ窓の分銅から金庫・文鎮・ホチキスに至るまで、地方長官の許可がなければ製造できなくなり、鉄鋼工作物築造許可規則(商工省令第24号1937.10.11-1943.4.1)により建築制限が行われた。いわゆる三十坪規制である。さらに米松販売取締規則(商工省令第52号・92号1938-1945)により、木材不足となったため、木造建物建築統制規則(商工省令第67号1939.11.8-1943.4.1)が実施される事に。建坪制限の範囲は、一般建物については100㎡(30.25坪)以下、農林・畜・漁業を営む業務・居住併用建物については160㎡(48.4坪)以下となり、この建坪以上を超えて建築するものは地方長官の許可が必要となった。
 チャーチルが松岡に充てたメッセージ(『太平洋戦争への道』6巻116ページ)に、「1941年の米国と英国の鋼鉄生産量は9千万トンであり、万が一ドイツが敗北すれば、日本の鋼鉄生産量7百万トンでは日本単独での戦争のためには不十分」とあるように、1942年において、アメリカ、ドイツの十分の一であった。経済規模は戦争末期には1937年の六割に減少した。一方、アメリカのGDPは増加している。ドイツも戦争中のボトムでも戦前ピークの九割であった。日本の戦争はいかに国民の民生を犠牲にしたかがわかる。
 日中戦争は、英蘭による日本の孤立化によるものではなく、日本に理解を示す欧米諸国内の勢力よりも、日本と対抗し、中国の立場に理解を示す勢力を味方につけた中国の外交戦術が功を奏したことから結論が出たものであるというのが主流の見方である。日本侵略により東南アジアの華僑はナショナリズムに目覚めたが、インド等は第一次世界大戦参戦で欧米の兵士を目の当たりにし、その現実を見ることにより既に目覚めていたからである。

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