*

京都、ビガン、マンダレーと戦禍

公開日: : 最終更新日:2016/11/25 戦跡観光, 随筆など

京都は千年の古都と称されるが、京都駅に降り立ってもそのイメージはわかない。同じ千年の街と呼ばれるベニスがイメージを裏切らないのは、自動車が使えないからであろう。
italy-venice_santa_lucia_station-_c_nito_editorial_only-shutterstock_178472621-13feb300px-Stazione_di_Venezia_Santa_Lucia

都市の規模が違うと言ってしまえばそれまでだが、欧州の古都は、旧市街地と新市街とを峻別している。京都もチャンスはあったのであるが、モータリゼーションと空調システムを受け入れてしまった。
https://youtu.be/hthwRX4T7_U

京都は意図的にアメリカ軍は空爆しなかったと子供のころ学校で教えられたが、実際は1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日かけて5度にわたって無差別爆撃が行われている。報道管制が敷かれたため被害の詳細は判明していないようであるが。第5回の空襲以降、京都への空襲は停止されたが、原爆投下目標だったからとされるものの、これもはっきりしない。文化財保護説は、戦争終結後に原爆投下に対する非難への弁明の一環として生まれたもののようだ。アレックス・カー氏(東洋文化研究家)までもが、「京の街は、フィレンツェやローマに並ぶ文化都市として、 世界の人々に愛されていた」 「第二次世界大戦の末期に、連合国軍司令部が京都を、 空爆対象からはずしたのもそのためだ」 と、言ったうえで、その京都を戦後日本人が自らの手で破壊してしまったと批判している。モータリゼーションと家庭の空調システム導入により、瓦屋根の街並みが消滅した。観光写真用に一部のこってはいるが、角度を五度ずらすと写真にならない風景しか存在しない。それでも世界遺産に登録されているのはありがたいことである。

天皇陛下が今年訪問されたフィリピンでは、ビガンが世界遺産に登録されている。
HistoricTownofVigan-1000x535
こういう素人ビデオのほうが実像を伝えている。
https://youtu.be/FbAfjUm5H8U

地元の郷土史家ダマソ・キング(Damaso King)によると、太平洋戦争中、アメリカ軍は旧日本軍の侵攻に対抗して、ビガン(Vigan)を砲撃しようとしていた。しかしながら、「もうこの街周辺には日本軍兵士はいないから…」とクレカンフ司教(Fr. Joseph Klecamf, The Parish Priest of Vigan)が、米軍に確約をしたため、この砲撃は取りやめになった。クレカンフ司教は、二人の日本人将校「高橋フジロウとナリオカ・サカエ」から、「現地で結婚した私たち日本兵士達は愛する家族を残して敗走するので、戦争によってこの美しい街が爆撃・破壊・略奪されることのないようお願いします。」と懇願された。1943年に憲兵隊長として赴任してきた高橋大尉はアデラ・トレンティーノ(Adela Tolentino)、ナリオカ将校は、ベレン・カスティーリョ(Belen Castillo)という女性と結婚していた。また、地元イロコス州知事のDV.サベリャーノ(Savellano)は、「したがって、ビガンの街は、彼ら日本人の「愛」によって救われたのです。」とも述べているようである。2009年作 フィリピンのインディーズ映画(Bona Fajardo監督)「Iliw(イリウ)」は、第二次大戦時にルソン島北部・ビガンの街を爆撃から救った高橋大尉の実話が基になっている。 主人公の高橋大尉役は日本の若手俳優・高嶋宏行、ヒロイン・フィデラ役はKaye Abadが演じている。京都では古都保存が映画のテーマにならないのは、商業主義での保存運動であるからであろう。

https://youtu.be/Z8ztyhtgQjA

マンダレー (မန္တလေး, Mandalay) は、ミャンマー(以前のビルマ)でヤンゴンに次ぐ第2の都市であり、人口は 九十万~百万、都市圏人口は 二百万人に上る。
manda24
イギリスにより併合されるまで、ビルマで独立を保った最後の王朝(コンバウン王朝)の首都(1860年~1885年)であった。第二次世界大戦中は、日本軍が、中国の補給線を断つことを狙って、インドシナを占領した。しかし、1939年1月には、ビルマを経由する新たな補給線が既に開通していた。これは、ビルマルートとして知られるようになったもので、ラングーン(ヤンゴン)からマンダレー、ラシオ、保山市及び昆明市を経由して重慶市に至るものであった。何万トンもの軍需物資がこの道を通って中国の民族主義者に届けられ、日本軍を苦況に陥れたために、日本軍はこの補給線を断とうと躍起になった。そのため日本はビルマに進攻し、マンダレーを1942年5月2日に占領した。王宮を含む要塞は日本軍の兵站部に転用された。
父親の『両忘』にはビルマでの戦争のことが詳しく記述されているが、マンダレーについても触れている。イギリス軍がラングーンの都と港とを奪回するための地上作戦の一部として1945年3月にマンダレーを解放した。それに先立ってのに先立って、激しい爆撃にさらされた。日本軍が敗走中マンダレーを障害物としたが、2日と持たなかった。英国軍もマンダレーを回避しても支障はなった状況であった。父親は両軍が無防都市宣言をしてもよかったと記述している。戦争も状況で変化するから結果論であるが、ビガンを美化するのであればマンダレーは反省すべきでダブルスタンダードはよくないであろう。

http://www.jinryu.jp/public/wp-content/uploads/2015/05/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%85%E8%B7%AF%EF%BC%88%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E6%88%A6%E8%B7%A1%E5%B7%A1%E3%82%8A%E3%81%A8%E6%85%B0%E9%9C%8A%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E7%B4%80%E8%A1%8C%EF%BC%89.pdf

関連記事

no image

 『満州鉄道 まぼろし旅行』川村湊2002年文芸春秋

資料を活用したよくできたわかりやすい著作物。小学6年生のサツキくんと小学4年生のヤヨイちゃんをつれて

記事を読む

no image

◎◎2脳への刺激(脳波信号解析)と観光~「ダーク・ツーリズム」批判~

 脳波信号解析研究の結果、人間の脳波の周波数はほぼ0~30ヘルツの領域に収まり、その周波数の組み合わ

記事を読む

no image

保護中: 高論文 「観光の政治学」 戦前・戦後における日本人の「満州」観光を読んで(メモ)

高論文 「観光の政治学」 戦前・戦後における日本人の「満州」観光 (満州引揚者)極楽⇒奈落 ホス

記事を読む

no image

◎◎3 戦争、観光、メディア~戦争も観光資源へのパスポート~

 戦争・戦闘はメディアが好んで取り上げる。メディアは刺激を基本とするからである。観光を論じる意義とそ

記事を読む

no image

『骨が語る日本人の歴史』を読んだAMAZON感想文のメモ

「歴史は後からつくられるから、観光資源なぞいつでも作ることができる」と常日頃主張させていただいている

記事を読む

no image

『細菌戦部隊と自決した二人の医学者』常石敬一、浅野富三

p.97に「厚生省の設置」の記述があるが、著者は「厚生」の語源には興味なく触れていない。観光研究

記事を読む

no image

戦前に観光が展開された時の日本の状況

日本の学会では1920年代の国際秩序をワシントン体制という概念で論じることが通例。1931年の満州事

記事を読む

no image

『両忘』父の死

12月9日深夜12時55分父がなくなりました。故郷の板谷医院で息を引き取りました。夏に大腸がんが見つ

記事を読む

no image

東アジア人流観光論の骨格(人口と人流)

○東アジアの人流を考える場合に、まずその地域の定住人口の推移を把握しておく必要がある。私は定住人口の

記事を読む

no image

QUORAにみる観光資源 フランスには第一次世界大戦がきっかけで未だに住むことのできない地域があるって本当ですか

この回答は次の質問に対するQuora英語版でのRichard Sampleさんの回答です (ご本人

記事を読む

PAGE TOP ↑