◎◎3 戦争、観光、メディア~戦争も観光資源へのパスポート~
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最終更新日:2016/11/25
戦跡観光
戦争・戦闘はメディアが好んで取り上げる。メディアは刺激を基本とするからである。観光を論じる意義とその定義(Significance and its definition to discuss tourism)を、人を自発的に移動させる動機付け(Motivation to be voluntarily move the people)に求めるとすれば、戦争の記憶や記録は刺激があり、人を移動させて見に行かせる力があるということになる。戦争も観光へのパスポートなのである。そこにはメディアと共通性がある。
米国メディアは米西戦争で販売部数を拡大(*佐藤卓己『現代メディア史』1998岩波書店p84)したように、日本のメディアも日露戦争で販売部数を拡大した。日清戦争(1894-5)時、国民にむけて最も多くの戦争報道をしたのが新聞である。従軍記者を送るなど戦争報道の強かった『大阪朝日新聞』と『中央新聞』が発行部数を伸ばし、逆に戦争報道の弱かった『毎日新聞』が没落した。戦争報道は、新聞・雑誌で世界を認識する習慣を定着させるとともに、メディアの発達をうながした。人々の価値観を単一にしてしまう危険性をもった。新聞と雑誌は、清が日本よりも文化的に遅れているとのメッセージを繰りかえし伝えた。
今日でもCNNは中東戦争で販路を拡大している。満州事変当時、庶民はむさぼるように事変を報道する新聞を読み、ラジオを聞いた。朝日、毎日のセンセーショナルな報道の集中攻撃を受けて、東京の各紙は没落していった。
現在でも保阪正康氏が「抗日デモに触発されての反中国の、論調、こういう内容を見ているとあまりにも日本社会が感情的なのに驚かされてしまう。日本のメディアの中には、まるで昭和一二、三年の日中戦争時のメディアのごとくに振舞っている」「どうしてあのような見出しをつけるのかと質すと、メジャーなメディアの編集者のなかには率直に「いや、売れるんですよ」という」と記述している(『日中韓ナショナリズムの同時代史』日本評論社2006年p.17)
メディアは影響力があるから、その報道姿勢が問われる。日本の軍部は一番リベラルと思われていた朝日新聞に、226事件で圧力をかけた。その結果、対外政策に反駁を許さない全員一致型「一億一心」の原型が形成されていった。戦後、緒方竹虎は『五十人の新聞人』電通1955年p206-207「なんとか朝日新聞が生きて行かなければならない」と弁明している。なお、圧力がかかったのはメディアだけではなく、産業団体、宗教団体、労働組合、言論人等も同様であった。
政友会の統帥権干犯論(*)に関して、朝日、報知の社説は非難をした。
注)鳩山一郎「果たしてしからば、政府が軍令部長の意見に反し、あるいはこれを無視して国防計画に変更を加えたということは、まことに大胆な措置といわなければならない。国防計画を立てるということは、軍令部長または参謀総長という直接の輔弼機関が個々にあるのである。その統帥権の作用について直接の機関がここにあるにもかかわらず、その意見を蹂躙して・・・」
政府に対する軍部の優越を承認し帰って強調さえする犬養、鳩山の質問演説は、政党政治家の節操を捨てた、まさに自殺的所論であった。彼らが発した統帥権干犯論がやがて五・一五事件の動因となった。四月二六日の東京朝日の社説、報知新聞社説 新聞論調一成に犬養、鳩山を非難した。新聞は軍縮支持の論陣を張ったが、満州事変を境に新聞は満州国建国、国際連盟脱退、日中戦争、太平洋戦争と既成事実を次々に追認していった。新聞の戦争賛美と無産政党の沈黙を吉野作造は孤高の叫びで批判した(『太平洋戦争への道』第7巻附録「新聞と満州事変」今津弘)
戦前、在日の欧米ジャーナリストにも専門家がいなかった。日本語ができず、学歴も低かった。取り締まりのきつかった日本の官憲の対応は、逆に日本の実情や主張が伝わらずマイナスであった。1937年以降は中国発ニュースに価値があったくらいである。
注)グル―をはじめとする駐日アメリカ大使館職員は、日本の指導層は、追いやられて非合理的な行動をとるかもしれないに認識していたにもかかわらず、ワシントンにまでは届かなかった。日本の世論には強い反米傾向は存在していないと強調しても、ワシントンには影響力はなかった。それを求めるのも無理であった。やけくそ開戦である。それぞれ組織に忠実だが、国としては無責任な判断であった。特に真珠湾を攻撃したことはアメリカ世論を刺激した。油の欠如も主に日本の海軍のことであり、実際に禁輸措置が講じられても一年くらいは持つので、ゆっくり考えればよかったのではないかという回顧録も出ている。
満州事変の発生時点は、中国は第三次掃討共戦で果てしない内戦状態にあった。大恐慌で中国都市経済の危機も深刻化し、1931年には漢口堤防が決壊して大洪水被害が発した。抗日運動には中国共産党が先頭に立っていたが、日本の武力行使を対ソ戦の前哨戦とする見方が強かった。一方、国民党は対国際連盟協調外交を基本にして、国際的圧力による日本軍の満州撤兵を主張していた。
ソ連政治局の主要な関心事は、満州におけるソ連の権益を日本の進出から守ることであり、東支鉄道を中止としたソ連の勢力範囲を維持できる限り日本の南満州支配を認めることはやむを得ないとする空気が強かった。中国のナショナリズムを刺激しないよう注意深くかつ巧妙にしていた。
国際連盟の調査委員会案は、事実上は中国よりも日本を支持する案であった。アメリカや連盟の大国は事件を局地的に理解しようとした。英国は経済的政治的に混乱期にあり、日本軍の行動はイギリスの満州における利害に有利に反応すると考えた。英国内世論も日本に同情的であった。そこへ日本軍が錦州を無警告爆撃し世界に衝撃を与えた。スチムソンは制裁を主張することとなったのである。
リットン報告書は、自治政府による「大部分は日本人である」外国人顧問の任命などを提案、満州支配に関して日本と他の大国との妥協を図ろうとするものであった。しかしながら、日本は反論し、デーリーメールは日本に賛意を表した。連盟では小国が決然とした行動を主張。英国は日本を支持する状況であった。
中国の民族運動の中心地である上海に戦闘が勃発した。満州よりも著しく欧米諸国を刺激した。中国の外国投資の三分の一は上海に投じられていたからであり、欧米の世論は変化した。
このように、決して一直線に日本と英米が対立していったわけではなく、日本政府の統一感の度を越した欠如や日本の世論とマスコミが英米を中国側へと追いやった面もある。
東アジアには、日本、中国、韓国等の間で歴史認識をめぐり大きな隔たりがあり、その分関心も集めているから、観光資源としては一級の力があることになる。多くの中国人は靖国神社(就遊館)の名前をしっているであろうし、多くの日本人は南京記念館の存在を知っている。メディアが取り上げるからである。しかし、泰緬鉄道のミャンマー側始発駅タンビュザヤにある「死の鉄道博物館」の知名度はないから、寂れてしまっている。ダーウィンの戦争博物館も同様である。両者とも日本軍の攻撃等を残しているのであるから、南京大虐殺に敏感な人はもう少し関心を持ってもよさそうであるが、無関心である。その原因はメディアを通じて対立が報道され、その結果国民感情レベルで日中関係が好転していないからである。ミャンマー、オストラリアに至っては、メディアに登場することもなく、関心も集めないから、観光資源化するはずもないのである。
メディアと政治の関係につき、「日本人は中間妥協案をつくるのがすごく不得意な国民。トップが決断しようとしても、国内が許さない。一九四一年の日米交渉で懸案となったのは日中問題。日中間は裏面では和平交渉のパイプは届いていたが失敗に終わったのは軍や外務など、政治主体の足並みが揃わなかった。リットン報告書は、客観的に読めば、日本にも十分宥和的な案。けれども、国民としては、希望的な観測を書き散らしたメディアのせいで、ずっと良い案が出ると思っていた。ですから、トップが妥結しようとしても国民が許さない。わかっている人が何とかしようと思っても、世論が発火するのが目に見えているからどうしようもなかった」と加藤陽子と高木徹は対談の中で語っている(「国際メディアと日本人」講談社 読書人「本」2014年6月号)
今日でも、CNNやBBCなどの英語圏メガメディアがどういう報道をするか―どちらが善でどちらが悪とするか―によって、国際世論が形成され、現実の国際政治も動くという事態が出現している。このことを加藤陽子(東京大学教授)と高木徹(NHKディレクター)は対談(「国際メディアと日本人」講談社 読書人「本」2014年6月号)の中で、語っている。しかし、米西戦争も日露戦争もメディアが世論形成したわけで今に始まったわけではない。今日モロッコに観光客を引き付ける最大の力は映画「カサブランカ」(1943年)であるが、反枢軸を意図したアメリカの国策映画であり、ハリウッドのセットで制作された話はあまりにも有名である。
その一方で、見え見えの国策映画は大衆にそっぽを向かれる。戦争の勃発と同時に大人の映画観客が増加した。盧溝橋事件は最初ニュース映画で話題になったが、一段落するとニュース映画も下火になった。国策映画は大衆に受け入れられなかったが、その中で例外的にヒットしたものに「ハワイマレー沖海戦」「かくて神風は吹く」があるが、特撮が見事であったことがその理由である。むしろナチスドイツの方が娯楽を中心に[映画を作成していた(戦時下の民生のイメージ:『戦時下の日本映画』古川隆久 吉川弘文堂 2003年)。ナチスは映画に限らず、民生への気配りは怠らなかったといわれている点が、戦時体制の日本と異なり、戦後の日本人の被害者意識へとつながってゆく。1939年に映画法が制定されたが、「支那の夜」も 国策映画ではない。日本中国双方から批判するものもいたが大ヒットとなった。ナチスは映画に限らず、民生への気配りは怠らなかったといわれている。民生への配慮が欠けた日本では、戦後の日本人庶民の被害者意識を生み出すこととなった。
特に日米戦争について、「戦争はすべての日本人が受忍すべき」ことなのか?という感情が発生するのは、空襲被害には何も賠償されていない(不公平感)が一般国民にはあり、近隣諸国に戦争責任を認めづらい国民感情の原因となっているのである。皮肉にも1944年6月は石炭の生産のピーク(北シナの数字)であり、敗戦気分が中国大陸の日本人にはそれほど強くはなかった。米軍は、日本の戦意を失わせるため住宅地無差別爆撃を行ったが、泥沼化した中国では、日本が先に重慶を無差別爆撃している。ベトナム戦争で北爆を開始したとき、アメリカは中国の参戦を予想し、中国が参戦してきたなら、中国を核攻撃する予定であったとする説が存在する。賢明な中国は朝鮮戦争とことなり参戦しなった。それ以前にヒットラーも米国潜水艦に撃沈されたと思われるドイツ商船があっても、報復しなかった。アメリカ軍と比較して自らの軍事力を認識していたからである。この点において日本の戦争指導者、特に海軍首脳は軍事力の差を認識しながらも今更国民に釈明できないのか、捨て鉢気味に戦争を開始してしまった。
日米中三国間の国際情勢につていは、田中宇氏の論文(不合理が増す米国の対中国戦略)が参考になる。要旨は、日本政府の対中国強硬姿勢は、日米同盟を強化するための策。日米同盟の観点を抜きにすると、日本が中国と対立するメリットはない。中国では反日ナショナリズムが共産党独裁を強化する利点があるが、日本はもともと国内が超安定的で結束しており、ナショナリズムを煽る必要が全くない。日本は韓国との関係も悪いが、これも日韓が仲良くすると在日・在韓米軍の撤退につながるので、意図的に仲を悪くしている。というものである。
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