戦時下の民生のイメージ:『戦時下の日本映画』古川隆久 吉川弘文堂 2003年
公開日:
:
最終更新日:2016/11/25
戦跡観光
観光も戦時下において隆盛になった。満州観光や神社巡りが奨励された。戦争の勃発と同時に大人の映画観客が増加した。盧溝橋事件は最初ニュース映画で話題になったが、一段落するとニュース映画も下火になった。国策映画は大衆に受け入れられなかったが、その中で例外的にヒットしたものに「ハワイマレー沖海戦」「かくて神風は吹く」があるが、特撮が見事であったことがその理由である。むしろナチスドイツの方が娯楽が中心に[映画を作成していた。ナチスは映画に限らず、民生への気配りは怠らなかったといわれている点が、戦時体制の日本と異なる。
「カサブランカ」(1943年)もアメリカの国策映画であった。
「愛染かつら」は催涙映画と呼ばれて蔑視された。
1939年に映画法が制定されたが、「支那の夜」も 国策映画ではない。 日本中国双方から批判するものもいたが大ヒットとなった。
東條から小磯内閣にかわり、言論指導方針を率直に再検討し始めた。
関連記事
-
保護中: ○日米関係史「開戦に至る10年」2陸海軍と経済官僚(メモ)
明治憲法(67条)は、予算は行政機関に対する天皇の訓令という考え方であり、統治者自身は予算に拘束され
-
ジャパンナウ観光情報協会7月号 ミャンマー散骨旅行記(1)
九十六歳の父親がイラワジ川散骨を希望して旅立った。子供の頃モールメンライターやシャン族の話を聞かされ
-
マニラ市街戦 NHKのドキュメンタリーを見て
港区図書館で表記DVDを借りて早速見てみた。マニラは二回訪問しているが、最近はUberも登場している
-
福間良明著『「戦跡」の戦後史』岩波現代全書2015年を読んで
観光資源論をまとめるにあたって、改めて戦跡観光を考えていたが、偶然麻布図書館で福間良明氏の『戦跡の戦
-
京都、ビガン、マンダレーと戦禍
京都は千年の古都と称されるが、京都駅に降り立ってもそのイメージはわかない。同じ千年の街と呼ばれるベニ
-
『満州鉄道 まぼろし旅行』川村湊2002年文芸春秋
資料を活用したよくできたわかりやすい著作物。小学6年生のサツキくんと小学4年生のヤヨイちゃんをつれて
-
ダークツーリズムの一例
ハンフォード・サイト(英語: the Hanford Site)は米国ワシントン州東南部にある核施設
-
『骨が語る日本人の歴史』を読んだAMAZON感想文のメモ
「歴史は後からつくられるから、観光資源なぞいつでも作ることができる」と常日頃主張させていただいている
-
保阪正康氏の講演録と西浦進氏の著作物等を読んで
日中韓の観光政策研究を進める上で、現在問題になっている「歴史認識」問題を調べざるを得ない。従って、戦