◎◎4 人流・観光資源としての歴史認識
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最終更新日:2016/11/25
戦跡観光
モンゴル観光の最大記憶資源であるチンギスハーンは現在世界史の上においてもっとも有名な人物の一人でもある。しかしモンゴルにおいて、庶民がその存在を再認識するのは社会主義時代になってからであった。歴史は後から創造される諺の典型である。
日本の古代国家は、7世紀以降、中国の諸王朝とは対等、朝鮮半島の諸王朝よりは上位、という国際的地位の実現を戦略目標としていた。日本、天皇という言葉もその視座からつくりだされている(*)。日中戦争時期は勿論のこと、今日の日中、日韓の歴史認識問題を日本人の抱える問題して考える場合、嫌中・親中、嫌韓・親韓いずれの視座も根底はそこにあるといえる。
*「日中歴史共同研究」の「15世紀から16世紀の東アジア国際秩序と日中関係」(p155)の日本人研究者の記述
「中国人民の抗日戦争は世界反ファシズム戦争の重要な一部をなしており、世界反ファシズム戦争の東方主戦場であった」とする認識が中国研究者の認識であるが、中国の研究者にかぎらず、満州事変を侵略戦争の起点とする『太平洋戦争史観』共通の認識であり、極東国際軍事裁判、サンフランシスコ平和条約の思想でもあるから、研究者には歴史認識はおおむね共有できるのであろう。
研究者と異なり歴史認識は大衆レベルでは大きなギャップ。一般の日本人には戦争といえば、日米戦争であり、真珠湾攻撃から始まり、広島長崎原爆投下からポツダム宣言受諾がメインイベントになってしまうが、このことも、現代の庶民における日本と中国、韓国との歴史認識の差、あるいは沖縄との認識の差となってしまう。「国恥百年」はアヘン戦争からの百年であり、中国庶民は英国を忘れていない。第二次日中戦争では二千万人の被害にあったと認識している。辛亥革命の否定と認識される満州事変から始まった侵略行為が東京裁判で決着したと認識されている。対華二十一カ条要求受諾(1915年)の5月9日、満州事変勃発(1931年)の9月18日)日中戦争勃発(1937年)の7月7日はそれぞれ国恥日となっているから、忘れない。それにもかかわらず、日中平和条約で賠償放棄をした。日本にとっても天文学的数字 巨額すぎて請求されたら締結できなかったのだが、カリスマ性の強い指導者のもとの共産党であったから中国内の不満を抑えて締結できたのである。
盧溝橋のそばに 中国人民抗日戦争記念館が設置され、2001年10月に小泉首相も訪問している。これらのことが記憶遺産として人流・観光資源化すれば、日本人向けのツアーも増加し庶民の歴史認識も変化してくるのであろう。
現在尖閣等で日中関係が問題になっているが、今に始まったものではないことを理解しておかないといけない。「排外主義」を学校で肯定的に教えることは、決して中国共産党が最近になって始めたことではなく、戦前から一貫して続いている。根底には中国が過去100年以上にわたって抱えてきた民族の屈辱と怨念の意識がある。50歳以上の中国人は文化大革命を経験、扇動された大衆が何をしでかしたか、脳裏に焼き付いている。国民もその恐れを何がしか共有しているからこそ、いまだ統制がとれている。(『岐路に立つ中国』津上俊哉 日経新聞社2011年)
日本の指導者には、中国の各軍閥への見方につき、統一に向かうとする見方と、統一はできずできてもかなり先であるとする見方にわかれ、その結果、中国との紛争解決の考え方にも差異がでた。『開戦に至る10年』第4巻p333においてもアメリカの中国イメージは近代化し改革が可能とみ、日本の親米派も共通の見解であったが、松岡、広田、有田、重光等は中国の歴史は分裂とというつの絶えざる循環であるとの見解であった。日本が武力により中国全土を征服することは不可能であることは日本の指導者は共通してわかっており、武力示威で政治的解決ができないかと考えていた。従って、早期解決の意向は日本の指導者には誰にもあった。その意味では近衛文麿総理の蒋介石を相手にせずとした発言は致命的であった。陸軍参謀が停戦に前向きであっても、近衛、広田等の文官が強硬姿勢を取る場合もあり、早期解決のコンセンサスができなかった。綏遠事件での関東軍の惨敗等の結果、中国では抗日救国運動が進展し、泥沼化していった。ベトナム戦争、アフガン、イラクにおけるアメリカ軍と同じことが既に発生していたのである。天皇陛下のお言葉である「満州事変に始まることの戦争の歴史を充分に学ぶ」とはこのことを背景にしているのであろう。
日米戦争は中国からの撤退ができなかったことの結果なのである。共産党との戦闘について旧陸軍の記述が少ないのは、正規軍ではなくゲリラであるとの認識であるが、日中戦争自体が、宣戦布告をしない、つまり戦争法規が適用されない戦いであるから、その点では、ゲリラと同じである。まさに、アメリカがベトナム、アフガニスタン等で手を焼いている状態を、日本は中国大陸で既に経験してきたのである。従って、戦争観も、その点に思いを致さないと、理解不足に終わってしまう。
注)百団大戦は、日中戦争中の1940年8月から12月にかけ、山西省・河北省周辺一帯において、中華民国国民革命軍に参加中の中国共産党軍と、大日本帝国陸軍の間で起きた一連の戦い。小部隊でのゲリラ戦を得意とした中国共産党の八路軍が、初めて行った大規模な攻勢である。(以下は中国の公式見解である)戦死者:日本側戦死者二万余、満州国軍五千余、八路軍戦死者一万七千余であった。日本陸軍(華北)の八路軍に対する認識は、百団大戦で一変したという。それまで匪賊程度にしか考えていなかった八路軍が思いもよらないほど浸透していたからである。百団大戦以降、日本陸軍は八路軍に対する攻撃を強化していった。
参考)4巻 リチャード・レオポルド p327「第二次大戦の時期を、中国との不平等条約の破棄と関連付け、あるはい今日のベトナムにおけるアメリカの経験と関連付けて考察した場合、我々は1931年―41年の十年間について一層深い理解ができるのではないか」
p334 コール「戦後、アメリカも日本もそれぞれ戦前にあれほど重要であるとみなしたものを中国で遂に発見しないでいる。もっと端的に言うと、日本は中国への支配を何らかの意味で日本の安全と経済繁栄にとって本質的に必須の条件であると考えていたのであった。しかし、今日、中国が軍事的、経済的、政治的に日本の支配圏外にありながら、日本はしっかりした国家的安全、大きな国力と威信、そして極めて高水準の経済繁栄を享受している。アメリカの場合においても同様のことが見られる。中国の統一は達成されたが、その領土的というのはアメリカがかって重要視したあり方とは極めて異なるものである。かつてのアメリカにとって中国の門戸開放は、日本との交渉面で、いかなる妥協も許さないものほどの神聖な原則であった。しかし皮肉なことに、今日アメリカに対して中国の門戸は閉ざされたままであるが、アメリカは高度の繁栄、巨大な力、安全を確保しているのである」
日本と中国、韓国の現代の歴史認識のずれを大きく整理してみると、ファシズム(中国)及び帝国主義(韓国)に関する認識のずれである。保阪正康氏は 上部構造のナショナリズムと下部構造のナショナリズムに分類するが、この歴史認識のずれは上部構造の分類に基づくものである。上部構造であるから研究者間の間での共同研究が可能であり、日韓の共同研究は『日韓歴史共同研究報告書』(2005年第一期分公開、2010年第二期分公開)が日韓文化交流基金のホームページから手軽に収集でき、歴史認識の差は現代に関わるものだけではなく、古代に関するものまでに及ぶことがわかる。その原因は中国との関係から発生するものであり、日本も中国もその歴史認識形成には、中国を抜きにしてはあり得ないことがうかがえる。
日中関係も、2005年から2010年にかけて共同研究が行われ『日中歴史共同研究報告書』(2014年勉誠出版)が出版されている。現在の日中関係を反映して、日米関係ほど研究者館の率直な意見交換(東大出版会)はなされていない。この点は政治体制が違わない日韓関係においても日米ほどの率直さは見られず、むしろ中国との関係に近い状況である。
いずれにしても日本と韓国、中国に関する歴史認識に関わるものは汗牛充棟のごとく出版されており、その認識のもととなる記憶、記録、施設等を見るという形で人を移動させる力を誕生させている。人流・観光研究者は、その力に着目して論じることができるところから、中国、韓国等の研究者と共通認識を形成できるのではないかと思う。
日本がファシズムのレッテルを公式に貼られた原因は三国同盟を締結したことに求められる。ドイツは中国に軍事支援をしていたこともあり、またソ連とドイツ、日本は相互に不可侵条約を締結していたくらいであるから、アプリオリにファシズム対非ファシズムの戦いということでもないはずである。ドイツ海軍の力は英国海軍に劣り、英国本土の征服は無理であると日本の海軍首脳は認識していたが、三国同盟締結に向かっていった。しかし、三国同盟締結が失敗だったことは直ぐに日本の指導層には認識され、三国同盟も形骸化させられていった。独ソ戦開始の情報も有効共有されなかった。三国同盟破棄を条件とするアメリカとの交渉において、三国同盟を破棄することのデメリットはなかったのであるが、内閣は軍部への配慮もあり、三国同盟の形骸化の意図を明白な表現で伝えることが困難であった。日本の指導層の統一感の欠如のあらわれの一つである。三国同盟締結の責任者である近衛文麿はアメリカ大統領とのトップ会談で戦争回避を狙うも、事務折衝なしでのトップ会談にアメリカが乗れるはずもない。事務方で事前に折衝すれば、中国、満州からの撤兵をめぐり日本の国内はまとまらないし、近衛総理にその力はないのであった。フォーマルな決定は陸海軍の主張を調整するために必要とされただけであった。この作文主義と顔合わせで何とかなるとおもう気質は現在の日本のリーダーにも受け継がれている。
逆転の発想をすれば、兼原信克のように「日本の戦略的値段が、世界史の中でもこの時ほど高かったことはない。しかし日本は、もっとも愚かな真珠湾攻撃という決断を下して、孤立していた米国を英国とソ連側に追いやり、自滅したのである。」「日本がバランサーといえるほどの重さがあったのは、第二次世界大戦がはじまって、真珠湾攻撃までの二年間だけである。ナチスドイツの猛攻にソ連が倒れかけ、米国が議会の孤立主義ゆえに参戦できなかった時期である。日本の帰趨は、世界の指導者の中でもスターリンが最も気にしていたであろう。」(『戦略外交原論』p.365 )と考えることは土台無理なのであったと残念がる気持ちが理解できる。 三国同盟破棄を取引材料にして、英国、ソ連、更には米国の勢力を引きこんで満州統治を国際化し、中国から撤収するくらいの戦略的判断ができていれば、日本は無傷で第二次世界大戦をすり抜けたかもしれない。もしそうなれば、逆に中国は戦後、租界地を抱え続ける欧州列強と難しい関係を強いられていたであろう。中国からの欧州租界の撤収は、日本が欧州諸国と戦端を開いたために、欧州が日本の敵国である中国に配慮したものだったからである。常に敵の敵は味方である(『戦略外交原論』p.88)。
ファシズムの認識は中国の公式の認識であり東京裁判の戦勝国史観でもあるから、日本政府は建前として否定できない。中国共産党はファシズム批判とともに、日本人民も被害者という認識を公式にしている。しかしながら、中国の下部構造のナショナリズムは、メディアを通して形成されているから、「抗日有理、愛国無罪」のスローガンが掲げられてしまう。上部構造の歴史認識の共有ではなく、下部構造の人の交流により人流資源を共有することから始めなければならない。訪日中国人観光客の増加はその可能性を拡大させている。
帝国主義は他者を支配することを積極的に肯定する思想によって正当化された。日本の朝鮮植民地支配である帝国主義の認識は「日帝」というfinal vocabularyになって韓国の下部構造のナショナリズムにまで及んでしまっている。北朝鮮との分断状態での正統性の主張のためにも、譲歩できない状態である。
ガンジーがノーベル賞を授与されなかったのは英国が反対であったからだとされる。第一次大戦では延べ百万のインド兵が繰り出された。その結果もあり1937年にはインド地方政府は全てインド人に委譲されていた。第二次世界大戦では植民地の意思を問うことなく戦争はできなくなっていた。ドイツとの戦争に備えるため 1941年にルーズベルトとチャーチルは大西洋憲章を締結した。その第三条で民族自決をうたっているものの、インド国民会議派の質問に、チャーチルはインドには適用されないと答えている。この憲章に対して植民地支配の否定と有色人種に対する人種差別撤廃を掲げ、日本が提唱したのが大東亜共同宣言でもあった。その日本も朝鮮独立運動は弾圧し続けていた。台湾においても日本統治時代を「日治」とするか「日拠」とするかの歴史認識の違いをめぐり、中華民国史と台湾史の対立がある。(何義麟 2003年東大出版会『2.28事件「台湾人」形成のエスノポリティックス』)
*)身体を拘束されている最中にノーベル平和賞の授与が決まった現存の人物には、1991年に受賞したアウンサンスーチーと2010年に受賞した劉暁波がいるが、その前に反ナチス活動家のカール・フォン・オシエツキーがいる。前ニ者については関係国においては政治問題に発展しかねない厄介な問題でもある。1935年の授賞は、第一次大戦の破壊から立ち直って再台頭しそうなドイツを悪者に転じさせる英国の謀略だったと考えられている。逆に1940年代には、英国に楯突いてインドの独立運動を率いたマハトマ・ガンジーが5回もノーベル平和賞の候補となったものの、受賞していない。ガンジーが連合国側の意図を見抜き拒否したとする説、その逆に英国がノーベル委員会などに圧力をかけ5回とも阻止したとする説もあるが、この点についてノーベル財団自身が弁明している。http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/themes/peace/gandhi/
注)松沼美穂「「アジア人」から「ヨーロッパ人」へ ―フランス領インドシナにおける日本人の法・行政的処遇―」『帝国の長い影』2010年ミネルバ書房 p117 国際社会の人の階層的分類は法規範という文化に基づくものだと説明されていたが、日本人を完全な主体として認知していった結果、日本人は国際法上ヨーロッパ人に分類されるようになった。その結果文明を事由とする格差を容認しない国や民族の要求を招いていいた。日本はこうした動きの動機になったが、その動機は格差事態に対する批判ではなく、むしろ逆であり、中国人より上位に位置づけられることが重要だった。
現代の日本人には帝国主義の実感が得られないが、イギリスがスエズ以東から撤退したのは1963年、東京オリンピックの前年であり、日韓平和条約が締結されたのは1965年であった。その後も南アフリカ共和国はアパルトヘイト政策を実施していた時代であり、日本人のみならず、韓国人等も名誉白人扱いされていた。
日韓の歴史認識問題は、主に日本帝国主義をめぐる認識のずれから生じている。日韓併合はその当時欧米列強の支持も得られていた。専門家の間では、歴史認識を共有するための努力が始められている。しかし、歴史認識のずれの発生は、メディアの姿勢に影響することを、『日本言論界と朝鮮』 姜東鎭著 1984 法政大学出版会で既に明らかにしている。日韓併合をめぐり、幸徳秋水の平民新聞を除けば、朝鮮支配政策論に関して、言論人や知識人は、一般に政府の見解よりも強硬であった。当時の民本主義者よりも社会主義者のほうが、朝鮮問題に関しては保守的であった。1930年代に入って後にコミンテルンの指摘で認識をあらためられたのである(p370-371)。
重村智計も日本人が朝鮮半島を植民地にしたことを忘れている原因の背景に、韓国の存在を否定し北朝鮮の存在だけを認めた日本人左翼のneocolonialismが隠されているとする(「アジア学のすすめ」p15)一方保守派は北朝鮮批判にcolonialism意識を利用した(いいこともしたのだ)。
三一運動(99万)時、その発生原因を軍人総督制度とする民族自決の認識にかける報道が日本ではなされていた。従って、日本人観光客は関心を示さず、堤岩里3.1運動殉国記念館(6万)に足を運ばない。ハルビン駅に国家の英雄である安重根義士記念館(2万)が設置されている。日本では安重根(50万)はテロリストの位置づけであるが、世界のすう勢は帝国主義が否定されるとともに、評価も定まりつつある。記録遺産としての韓国のガンジー咸錫憲(0.7万)、韓国のジャンヌダルク柳寛順(3万)、サハリン残留朝鮮人とともに、興味を示さない。
観光客は、双方とも歴史認識は共有できないかもしれないが、興味の対象となる資源は共有できる。従軍慰安婦(94万)や独島(108万)に限定せず、これらの資源を観光人流資源として活用を図ることが歴史認識の共有にも通じるのではないかと思う。
帝国主義
○○英国の目的は、植民地や後進国を原料や半製品の供給源のまま閉じ込めておくことであった。早急に世界の工場に変貌を遂げた英国は、自国領の製品を輸出するため輸出先である日本の関税を低く抑えておくことであった。以後、日本は関税自主権が認められない時代が41年続くことになった。
1930年代は世界経済が大不況から回復を模索する再編の時代であった。アジアは不況からの脱出を意図した欧米のブロック経済に分断再編され、自由通商体制が維持しえなくなった時期と認識される。欧州列強は植民地通貨の割高維持による本国製品輸出、植民地貿易黒字維持による本国配当の確保を図った。しかし、「世界政治的な孤立化を余儀なくされた日本」とのこれまでの認識は「1930年代華僑通商網の研究」(籠谷直人)で見直しが必要かもしれない。1930年代の日本の輸出はソーシャルダンピング的批判となっていたとされるが、英蘭がサービス、金融にウェイトを移す中、むしろ不況下の東南アジアには必要なものであった。日本製品は華僑、印僑により進んで取引された。華僑通商網においてはイギリス製品は中国製品と競合していた。1930年代の日本製品をめぐる通商網は、日本商社だけではなく、華僑、印僑、蘭商等の多様化した主体により相互依存度を高めており、孤立化していたのではない。英蘭の政策は日本製品の輸入規制をするものではなく、金融、サービス的利害に立った通貨政策を通じて、開放的であった。このような状況を可視化できる政治家が日本にいなかった。日中戦争は、英蘭による日本の孤立化からではなく、国民国家中国との競争から生まれたものである。日本侵略により東南アジアの華僑はナショナリズムに目覚めた。インド等は第一次世界大戦参戦で既に目覚めていた。非公式帝国(Informal Empire)とは、政治的・経済的な従属下にあるものの公的な支配を伴わない地域を指す。東インド会社支配下のインド、19世紀南アメリカ諸国、19世紀後半から20世紀初頭にかけての中国などがイギリスの代表的な非公式帝国である。
非公式帝国化する為の前提条件として、自由貿易で他の競合国を圧倒する経済力と、航路の安全を保障し自由貿易を相手に強制する軍事力が必要となる。政治的・行政的支配の伴う公式帝国に比較し、非公式帝国は直接的な支配を必要としない分、官僚や軍隊の維持に必要なコストを低く抑える事ができるとされる。
アメリカ陸軍 クロムウェルのような軍事独裁政府の出現を防止するための憲法、貸与のイギリス兵がアメリカ植民地に駐屯したことがアメリカ革命の一因であったこと
この視点は 日露戦争後日本が朝鮮満州を植民地にしたことが、陸軍の発言力を増加させた
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