◎◎5 戦争裁判の観光資源化~東京裁判とニュルンベルグ裁判比較~
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最終更新日:2016/11/25
戦跡観光
ニュルンベルク・フュルト地方裁判所600号陪審法廷は、ニュルンベルグ裁判が開催された法廷として資料も展示物も、観光資源化されている。評価をめぐり先鋭化していないのはドイツ国家の方針が功を奏して国際関係がうまく回転しているからである(田中宇 http://www.asyura2.com/14/kokusai8/msg/138.html)。ベルンハルト・シュリンク著『朗読者』を読めば、加藤哲太郎著『真実の手記 BC級戦犯 「私は貝になりたい」』と同じような悲劇が敗戦国には発生していたであろうことがうかがえる。いずれもフィクションではあるが、読者の共感を呼び、映画化されることにより、記憶資源へと成長している。流行歌「ああモンテンルパの夜はふけて」のヒットはフィリピン当局を動かしてBC級戦犯の特赦を勝ち得ていることから、フィリピンにおいて日本人にはなじみの深い地名となっている。
その一方、極東国際軍事裁判は旧陸軍士官学校講堂で開催された。防衛庁の移転に伴い市ヶ谷の自衛隊用地が再開発された機会に、防衛省が管理する「市ヶ谷記念館」の一部として、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使用された大講堂が保存されているが、東京裁判で使用されたとしか表示されておらず、資料等の展示は一切ない。旧陸軍大臣室に残した三島由紀夫の刀傷の方がむしろ観光資源化している。長崎市丸山の料亭花月の坂本竜馬の刀傷のようなものである。東京裁判をめぐる議論に巻き込まれたくないという意味で、今もなお現代的な問題なのであり、中国の南京博物館のように国際的な観光資源となっていない。東京裁判の被告が収監されていた巣鴨プリズンの跡として、東池袋中央公園に石碑「永久平和を願って」が1980年に設置されている。東京裁判を否定的にみる立場の集団が設置したところから、それに過剰反応した集団が石碑の撤去を求めて戦犯記念碑設置確認訴訟まで行ったが、石碑には東京裁判を否定する趣旨はなく同裁判で否定されている。むしろあまりにも無味乾燥な石碑であり、観光資源としてはまったく魅力に欠けるものであり、もう少し工夫をしてもよいのではとさえ思えてくるものである。なお、1982年、満州建国のために犠牲になった人々を供養する碑の建立を目的として満州建国の碑建設会が設立されたが、中国の反発により取りやめになっている(朝日新聞1982年9月15日)。
東京裁判の結果処刑されたA級戦犯が合祀されて以来、靖国神社も国際的に知名度が向上したから、第一級の戦争観光資源である。天皇陛下の参拝が中止になったものの、総理大臣をはじめ有力政治家の行動が注目を集め、国際ニュースに登場するようになった。中国人もひそかに見学している。見学した結果、中国批判がないことに驚くようである。人間魚雷が展示されている靖国神社の遊就館は一部の日本人のナショナリズムの発露であるが、1930年代。40年代の歴史観がそのままの形であらわれている。保坂正康氏は「軍国主義が正当化されている」(『日中韓ナショナリズムの同時代史』同時代史学会編2006年日本評論社p.21)とされるが、当時の日本の状態の理解を広める意味では、現代の中国人、韓国人等の外国人のみならず日本人も含めて人を移動させる力としての観光資源価値はある。
極東国際軍事裁判をめぐり天皇の責任論が問題化したが、米軍の占領政策により責任不問になり指導者責任論に落ち着いた。ニュルンベルグ裁判のようにナチスの責任にして贖罪することが日本の場合難しかった。それは天皇の責任に直結してしまうからである。天皇訴追回避のための資料改ざんもあった。破棄しては戦死者の遺族が困るので、大海令の複製を改ざんしていたと、天皇陛下は単なるロボット的存在ではなかったことが記述されている(『日本人の戦争観』吉田裕著 岩波書店 p40-41)。
裁判をめぐってはチャーチルに代表される即決処刑論とスターリンも主張した裁判論があった。張作霖爆殺事件からが審理の対象となり、判決は侵略戦争の起点を満州事変に求め、ノモンハンもふくめているから、太平洋戦争ではなく15年戦争なのである。満州事変はパリ不戦条約違反とされたが、共同謀議という刑事裁判の概念を用いて、個人の刑事責任として事後法で裁いており、東京裁判は戦勝国による一方的な裁判であるとの見直し論が国家主義的な思想の持ち主等から発せられるが、東京裁判実施にあたっての最大の論点の一つは天皇責任論を否定した処にある。この点の評価を避けるのであればダブルスタンダードである。
日本では真珠湾攻撃の記憶が強くアリゾナ・メモリアルが観光資源となってしまったが、真珠湾よりも前に宣戦布告なしに英国領マレー半島を攻撃している。サンフランシスコ平和条約において東京裁判を受け入れている。同時に戦時賠償の放棄も定まっているが、横田、沖縄のスキームも受け入れその結果が残っている。現代の日本人には、そのことの思いも行かなくなっている。
注)1928年不戦条約 戦争は違法化されたが植民地政策はされなかった。民族自決は欧州にだけ認められた。
注)アリゾナ・メモリアル(ハワイ真珠湾):湾内のフォード島側には「国定歴史建造物」として、日本海軍による真珠湾攻撃で撃沈された戦艦「アリゾナ」などの記念施設が一般に公開されており、現在の日本では観光地として知られている。アリゾナ・メモリアルは1966年に「国家歴史登録財」に登録された。艦自体は1989年に「アメリカ合衆国国定歴史建造物」に指定された。アリゾナ・メモリアルには、戦死した乗組員の名が刻まれた大理石の壁が船体の上を横切る形で設置されている。「アリゾナ」の上部構造及び主砲塔4基のうち3基は撤去されたが、一基の主砲塔リングは現在も水面下に確認できる。
占領が終了し1952年に軍艦マーチ復活が復活して、驚いたようだが、受け入れられていった。ダブルスタンダード論が台頭してくる。対外的にはサンフランシスコ条約を受け入れるが、対内的には戦争責任否定論ということである。このギャップが日本と中国、韓国、あるいは沖縄問題の歴史認識等のギャップにつながっているのであろう。
戦争を観光資源化し、フィクションも交えたエンタテインメント性の強いものであってもかまわないかから一般庶民が認識をできる限り共有化することが、更なる人を移動させる力となる。好き度、嫌い度で測られる感性は弱くなり、興味度の強弱により人を引き付けられるようになれば、国際観光政策としては成功である。
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