五輪2🌍🎒シニアバックパッカーへの道 1970年3月 台湾(中国⑵)(訪問地🏳🌈❷)
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最終更新日:2024/01/13
シニアバックパッカーの旅
出発前
台湾に行く前、厚かましくも、駒場の900番教室で国際関係論の講義をしておられた先生であった衛藤瀋吉教授に相談をした。留学生の高さんを紹介してもらい、その後。高さんの婚約者の郭さんに中国語を教えてもらうことにもなった。衛藤先生は瀋陽生まれの引揚者、講義のなかで、国連加盟を巡り中国共産党は、一国主義を主張する蒋介石に足を向けて寝られないはずと解説していた。もし、台湾が大陸と違う国だと主張して国連に残留するならば、台湾も中国だとする中国共産党は国連に加盟できなかったからである。この辺りの事情をすっかり忘れて、台湾有事ののんきな解説を聞くと、なんだろうと思ってしまう。当時は文化大革命の真っ最中であり、駒場にも造反有理のタテカンがそこら中にあった時代であるが、衛藤先生は文革礼賛の朝日新聞を手厳しく批判していた。
台湾到着
台湾の松山飛行場に到着。タクシー運転手が寄ってくるのは今のアフリカとあまり変わりはない。JALのカウンターにいた劉さんを思い出す。後日日本に旅行してきたときに、駒場のクラスメートと案内した。航空会社社員だから海外に行きやすかったのであろうが、台湾も経済成長期に入っていたのであろう。とにかく、当時はまだ日本語が普通に通じたから、台湾島一周旅行も難なくできた。日本社会にも、台湾引揚者が散見され、満州引揚者と異なり「アカ」呼ばわりされて迫害されたりしていなかった。同時期、叔母がジャカルタ旅行からの帰りに、台湾も旅行し、台湾は都会だと言っていたことを思い出す。
台湾旅行中、日本語ができる台湾人がおおいからか、声をけられガイドしてくれる人もいた。同じような日本人バックパッカーと知り合い、林忠誠さんを紹介された。早稲田大学に留学したこともあり、親戚の人に東京大学出身者もいるインテリ一家の方であった。台湾語の次に日本語を覚え、戦後北京語を覚えたようだ。夢は日本語で見ると言いていた。親戚の女性に蒋介石夫人の宋美齢の秘書をしている者がいるとかで、丸山ホテル、故宮博物館を案内してもらった。清朝が保有していた文物の9割以上が収蔵されており、これらは中国王朝の正当性を示すものという意識があったのか、優先的に大陸から軍艦で運んだという説明を聞いた。従って北京政府も正当性を示すため返還を求めている。両政府とも、故宮博物館の文物を巡っては、一つの中国論であり、他国が口を出す話ではないのだろう。
林さんのこと
林さんが映画に誘ってくれたので、反日映画を見たいとお願いした。香港で見た映画が偶然、反日スパイ映画であったからだ。英語と中国語の字幕が付くので、あらすじはわかる。台湾でも映画は反日映画、というより、題材が必然反日ものになってしまうのであろう。日本軍の裏をかき、ゲリラ活動を成功させる英雄的行動は、当然民衆のヒーローになる。団塊の世代が子供の頃読んだ戦記物のマンガでは、ゼロ戦に乗ってアメリカ機を追撃して帰還するパイロットがヒーローになっていた。冷静に考えれば戦争に負けたのだから、敵機の追撃などテーマにならないのであるが。
それよりも面白かったのは、映画が始まる前、全員が起立し、スクリーンに映し出された国民党のプロパガンダを聞かされたことだ。勇ましい戦闘機が画面いっぱいに映し出されていた。戦前に日本もこのようなものだったのかと思ってしまった。二本立ての映画のもう一本は、東京ぼんたの日本の喜劇もの。
林さんは、その後不動産開発で財を成し、子供は、カナダ、英国、日本に留学させていた。私の結婚直後に池尻大橋の狭い公務員宿舎に奥さんと訪問され、生まれたばかりの長女を抱っこしてもらったりした。私の方も、家内と台湾旅行をし、林さんの自宅に泊めてもらった。中国人は朝食に油パンを食べることや朝食から外食が普通であることをしった。2000年頃、国土庁の官房審議官にとき、林さんが訪ねてこられ、23階の部屋から霞が関を見てもらった。何も聞いてはいなかったが表情があまりなかった。死期が近いのだろうと思ったが、特に話題もしないでそのままわかれたのが最後であった。
台湾一周
台北から基隆まで、鉄道。台湾の鉄道は、席にコップが備え付けてあり、サービス要員がお茶を注いで回る。日本では経験しないことだ。基隆から花蓮港を経て太魯閣にむかった。まだ全島の循環鉄道は完成しておらず、蘇澳から花蓮港までバス移動。がけっぷちを走るスリリングな道であった。花蓮港から内陸の太魯閣までの往復もバスであった。花蓮港では少数民族アミ族の踊りをみた。夕食に街の小さな店で餃子を注文、餃子にはいろんな種類があることをこの時初めて知った。しかも注文したものが、量が多くて食べきれず、隣席の客に提供した。花蓮港から台東までは軽便鉄道、いまは狭軌に開軌されているはず。台湾の最南端は長崎鼻、その後、高雄の近くの温泉宿に一泊した。高雄ではあまり時間を使わず、鉄道に乗る。台中で同世代の学生と知り合った。住所を交換し、帰国後手紙を書いたら、さっそく返事が来て、政治向きの内容は差し控えてほしいと記載されていた。気が付かず後悔。映画「非常城市」に描かれている雰囲気は、当時もまだ色濃く残っていたのだ。
台北、帰国
北投温泉、淡水、野柳、龍山寺と定番の観光地に行ったが、当時はまだ九份は知られておらず、旅行業務取扱主任者の試験準備で知ったようなものだった。台北でお世話になったホテルの従業員が、バイクで円環公園に連れて行ってくれた。日本語でまる公園と言っていた。そこで食べた牡蠣焼きは今でもよく覚えている。日本に帰る途中、飛行機は那覇経由であった。沖縄から乗り込んできた老夫婦が、日本航空に乗り込むのにパスポートがいるのはおかしいと言っていた。内容は後で理解できたが、最初、言葉がわからず、日本人とは思わなかったことを覚えている。羽田に帰国、所持金がほぼなくなり、都心のホテルまでゆく深夜のバスに乗り込む際、日本円の小銭と、ドルの小銭を併せて支払った。写真はずいぶんとったはず。あるばむにはってあるはずだが、山代の家のどこかになるのだろう。
ジャパンナウ観光情報協会の講演会で、高寛氏から台湾の話を聞いた時のことをブログに記述。
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