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オリンピック1🌍🎒シニアバックパッカーへの道 1970年3月 香港(英国領🏳‍🌈❶)(中国⑴)(中国 国連加盟国1か国目)

公開日: : 最終更新日:2024/04/01 シニアバックパッカーの旅

英国等の欧米メディアが盛んに雨傘運動などを持ち上げ、中国共産党政権を批判している。日本のメディアは欧米追随だから、海外旅行をしなくなった日本人にも嫌中派が増えてくることになる。しかし、前世紀末までの香港は英国の植民地であり、長年住民には自治権もなく、基本的人権は中国返還後よりもひどかった。1970年、香港で案内をしてくれた中国人女性が、大陸との連絡鉄道駅を見に行った時、私たちには国がないのだといったことを今でも覚えている。

  学生時代、1970年の春休みに、約1か月をかけて香港、台湾を旅行した。 入学早々、大学紛争により授業がなく、奨学金も停止されていたが、1969年の授業再開により停止されていた分がまとめて支給されたので、それをもとに旅行した。当時お世話になっていた小運送協会が運営する学生寮での先輩、清水常臣さん(成蹊大学を卒業し神戸新聞社に就職、その後アジア諸国遍歴中に行方不明?)に紹介してもらった、香港の宝石商・鄭さん(後日、宝石の密輸容疑で逮捕されたことが記事に出ていて驚いた)、台北駅そばのホテル経営者を頼ってのバックパッカーの旅であった。香港では鄭さんに紹介してもらったネイザンロードのビルの一部屋に1週間、台湾では三週間過ごし、鉄道で一周した。台北で林忠誠氏と知り合い、その後長らく家族ぐるみでお付き合いいただき、家内とも台北でもお世話になった。

小運送協会の荏原中延にあった寮は3月末で引き払い、4月からは本郷に通学するに便利な伝通院そばにあった明倫館に移ることにしていたので、一か月の旅行中、所有物の保管に困った。当時はトランクルームのような商品もなく、寮にいた理科二類の浦野くんの部屋にあずかってもらった。机もあったので迷惑だったろう。

出発まえ、父親の士官学校の同級生であった藤原さん奥さんや、自由が丘にいた遠縁の篠塚さんから、餞別をもらった。海外旅行というとまだ珍しかったのであろう。貧乏旅行に私には予想外のありがたいものであった。学生で気が利かなかったのか、土産の事は気にしなかった。

羽田空港から出発、当時はセキュリティチェックなどなく、地上を移動しタラップから乗り込む際、従兄の信彦さんが空港ビル屋上の見送り台から、手を振ってくれたことを鮮明に覚えている。日本航空のマークは今のように大きくはなく、スチュワーデスの制服は青かった。当時の羽田の見送り風景は、フーテンの虎や社長漫遊記等の映画のシーンで見ることができる。航空運賃は東京、香港、台湾、沖縄、東京で、10万円、1ドル360円であった。

第四作 新・男はつらいよ の筋書き (競馬で大穴を当てた寅さんは、おいちゃん夫婦に海外旅行をプレゼントするが……。競馬で大穴を当てた寅さん(渥美清)は、おいちゃん夫婦にハワイ旅行をプレゼント。ところが旅行会社の社長が代金を持ち逃げして、海外旅行は夢と消える。)  Image ImageImage    

航空機はモノクラス、私は通路側、隣の窓側席は香港在住の日本人実業家。一日の旅行予算が3000円だと私がいうと、心配だったのか、初日はネイザンホテルに宿泊させてくれ、翌日紹介された知人のところを訪問した方がよいとアドバイスしてくれた。当時の香港の空港は、カイタック空港。市街地にあるスリリングな空港で、着陸すると多くの商業用看板が目に飛び込んできたが、その中国語群に外国に来たのだという感激を覚えたものだ。夜は、ホテルの中華レストランで、何人かの香港の人たちと、食事をごちそうしてくれた。当時私は学生だったからか、遠慮することも知らず、すっかり甘えてしまった。中国式の乾杯の仕方や、たばこをすすめる礼儀など、初めての経験であった。帰国後、新橋にある実業家の事務所に礼をいいに行った。

ホテルでの一泊後、鄭さんの宝石店を訪ねる。当時の香港では、昼時になると、ショーケースの上に食事をだし、店で食べるのが一般的であった。中国語のあいさつに、「めしは食ったか」という言葉があるように、食事ができるというのは自慢なのであったと、父親から聞いていたので、驚きはなかった。ネイザン通りに面したビルの一階は商店街だが、高層部分は住居になって、洗濯物が窓から干されていた。私に紹介された宿は、安宿でトイレ風呂は共有だったが、安ければありがたいわけで、気にならなかった。清水さんなどもここを利用したのであろう。

香港では、慕情の舞台となったビクトリアピークの丘に行き、感激したものである。女医であるハンス―インの手記がもととなっており、ジェニファージョーンズが演じていた。アバディーンにもいったが、水上レストランで食事ができるほどの予算はなかった。港にはサンパンが数多く浮かんで、水上生活者が数多くみられた。今はなくなってしまったタイガーバームガーデンにも出かけたが、四時までだ(広東語でも数字はヨンと聞こえた)ということで入れてもらえなかった。

航空の予約便は、現地でリコンフォームしないと自動的に取り消される時代であり、リコンフォームのためJALの支店に行くと、台湾から他社便になっていた便も、折角だから日本航空便にしましょうと変更された。当時はIATAの共通航空券だったので、そんなことができたのだ。

男はつらいよ第四作のストーリーでも、競馬で百万円当たったから、ハワイ旅行のプレゼントとなっているように、当時学生が海外旅行をするという時代ではなく、まだバックパッカーの概念はなかったと思うが、小山汽船という会社が、格安で学生を乗船させてくれる制度があり、それを活用して出かけた者いたと思う。縁があって、シニアバックパッカーの旅をすることとなってしまったが、カイタック空港の周りの看板の風景は今でも目に焼き付いている。

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◎香港デモ

Quora 今、日本にいる中国人留学生は、香港で行われているデモに賛成とは言えない立場にいるのでしょうね?

中国人留学生や留学生から社会人になった中国人がまわりにいますし、私自身も長らく中国(華南)にもおりました。質問者さんは、中国は言語統制をしている悪い国だという期待?前提なのでしょうが、、、正直なところ、今の中国の若者は「香港に興味がない」のが実情だと思います。だからデモに賛成も反対もない。香港に憧れていたのは1960年代~70年代生まれの世代までです。それもありまして、デモの初期は、「香港でデモが起きるなんてこれは一大事に違いない」という人もいたんですよ。その年代の人は。私もご多分にもれず、最初はそう思っていました。民主化デモを応援する気で、フェイスブックのソフト中道のプロデモグループにいくつか入っていたんですね。その中に、中国大陸の人もそこそこいました。しかし、19年なかばぐらいからプロデモ派(黄派)がちょっと常軌を逸した感じになり、次々と離れていきました。香港の人でも「民主化よりも、黄派の暴力をとめてくれ」という人が少なからずいました(國安法賛成、反対はだいたい同じぐらいいます)日本ではプロデモ派がいかに正しいか、という視点でしか報道されていないので、その裏にあることはあまり知らないのでは。

こちらは黄派に抗議した男性に可燃液体をかけ、火をつけた暴力事件です。https://platform.twitter.com/embed/Tweet.html?dnt=false&embedId=twitter-widget-0&features=eyJ0ZndfZXhwZXJpbWVudHNfY29va2llX2V4cGlyYXRpb24iOnsiYnVja2V0IjoxMjA5NjAwLCJ2ZXJzaW9uIjpudWxsfSwidGZ3X2hvcml6b25fdHdlZXRfZW1iZWRfOTU1NSI6eyJidWNrZXQiOiJodGUiLCJ2ZXJzaW9uIjpudWxsfSwidGZ3X3NwYWNlX2NhcmQiOnsiYnVja2V0Ijoib2ZmIiwidmVyc2lvbiI6bnVsbH19&frame=false&hideCard=false&hideThread=false&id=1193862913141825536&lang=ja&origin=https%3A%2F%2Fjp.quora.com%2F&sessionId=bdca81d6011729a0c2de7f9b81b8dc9ad74c07d7&theme=light&widgetsVersion=1890d59c%3A1627936082797&width=550px

デモ支持派は、そんなに平和的でもなかったんです。当然、こうしたことは中国でも報道されていますし、プロデモ派は暴力的で怖いというイメージが増強されただけでした。もう一つ、これもあまり語られてこなかったことですが、1980年代に中国が資本主義的経済を推進して以来、台湾系や香港系の企業が多く中国に進出しました。香港系はとくに、言語的に近い広東省で多かったのです。そこで、香港系・台湾系企業が何をしたかというと、労働法の抜け穴を探して労働者を安く使い捨てにする経営です。例えば、中国の地方から出てきた労働者や、あるいは中国で大学を卒業して香港企業や台湾企業に就職した若者を、半年とか2年間とかかなりの長期にわたって「試用期間」という名義で雇用します。そして、その後、会社が求める水準に達していないという理由でクビにします。そしてまた新規に労働者を雇用します。また、見かけは妥当な給与を払っているように見せかけ、寮や食事、シャワーの使用料などなどと名目をつけて給与から引いていくやり方もありました。その当時、そういう生々しい現場をいくつか見たことがありますが…正直、人道的とは言い難いものもありました。そんなことが重なって、広東省の労働・雇用法は全国でも特別に厳しいものになりましたが、つい10年ほど前まで、香港人はかなりおおっぴらに中国人を下に見ていました。日本人でもドン引きするレベルです。今の若い中国人は、彼らの両親や上の世代からそうした屈辱の歴史を聞いていて、非常によく知っています。現在の香港は経済もイノベーションもまるでダメダメ、キラキラの香港なんて過去の話で香港のGDPなんて深圳や上海にも追い抜かれている状態で、今は香港人が上海や広州に出稼ぎにきます。そういう状態を「いい気味」ぐらいに思っています。最近も、香港からイギリスに移住した香港人が9万人いるという報道がありましたけれども、私の周りにいる中国人の若い世代は「香港は未曽有の住宅難だし、高齢化や格差は大陸以上だから、飯桶(ご飯ばかり食べて役に立たない人のこと)が減っていいじゃないか!」という考えをよく聞きます。中国政府はすでに粤港澳ベイエリア計画を2035年までに完成させる計画をぶちあげていますから、住宅計画や都市インフラが旧態依然の香港もこれからかなり改善されるものと思われます。それを前に目先の民主化だの、どうせアメリカCIAが裏で手引きしている光復革命だのにうつつを抜かして、ブレクジットで経済も芳しいとは言い難いイギリスに行くならどうぞ!といったところです。

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