Quora 徳川秀康は、関ヶ原の戦いに、真田家の妨害で遅刻しましたが、将軍になれました。関ヶ原の大失敗の後に汚名を返上するような仕事をしたのでしょうか?
公開日:
:
歴史認識
のちの徳川二代将軍秀忠はいわゆる「関ヶ原の戦い」に参加していませんが、これは「遅刻」なのでしょうか。会戦は決闘ではないので双方が日時を決めて決戦を挑むわけではなく、偶発的に発生することが多いんだろうと思います。関ヶ原の戦いも岐阜城を陥した福島正則勢ら東軍の動きに反応して動いた石田三成勢ら西軍と「たまたま」慶長五年九月十五日に西軍勢の中で最も美濃国に近かった近江国佐和山の石田三成の本拠地へ侵攻しようとした(?)東軍が国境の関ヶ原付近で遭遇して戦闘になり、西軍があっさり潰走したというのが真相じゃないでしょうか。
秀忠の軍勢は東山道を西へ向かったというだけで「何月何日に関ヶ原に集合せよ!」と家康から指示されていたはずもなく、そうすると「遅刻」を責められる謂れはありません。東西両軍合わせて15万もの軍勢が関ヶ原で激突した!というのは江戸時代に書かれた軍記物の読み本や講談の世界で、実際にはそんな大会戦はなかったという説が有力です。合戦直後の一次史料で合戦があったことはわかりますが、秀忠が遅参して家康に怒られたとか、小早川秀秋の裏切りを促すために家康が小早川勢に鉄砲を撃ちかけたとかは史実ではないでしょう。
太平洋戦争時でも万余の軍勢が歩を合わせて作戦行動を取るのは難しく、ましてや420年前に幾手にも分かれて進軍する10万もの大軍勢が連携するのは困難と言うか不可能だったはずです。唯一の解決策は「ゆっくりする」ことだけで、秀吉の小田原攻めのように時間をかけて集合するしかありません。小田原攻めも伊達政宗の参陣が遅れたようですが、事情はあったんでしょう。関ヶ原の戦いは東西両軍とも全勢力の結集以前に偶発的に開戦になり決着がついてしまったので、たぶん家康直轄の軍勢も参加できていません(笑)。秀忠は「遅刻」を咎め立てされなかったと思います。
関連記事
-
-
『幻影の明治』渡辺京二著 日本の兵士が戦場に屍をさらしたのは、国民の自覚よりも(農村)共同体への忠誠、村社会との認識で追い打ちをかけている。惣村意識である。水争いでの隣村との合戦
「第二章 旅順の城は落ちずとも-『坂の上の雲』と日露戦争」 著者は「司馬史観」に手
-
-
QUORAに見る歴史認識 香港国家安全法制は怖くない
この回答は次の質問に対するQuora英語版でのJohn Chiuさんの回答です (ご本人は翻訳の成
-
-
ソ連の北方四島占領作戦は、米国の援助のもとで実施されたという「発見」 『さらば!検索サイト』太田昌国著 現代書館
また私の頭の中で「歴史は新しく作られる」という例が増加した。表記のpp.77~79に記述されている
-
-
鬼畜米英が始まったのは、1944年からの現象 岩波ブックレット「日本人の歴史認識と東京裁判」吉田裕著
靖国神社情報交換会に参加した。歴史認識は重要な観光資源であるとする私の考えに共鳴されたメンバーの
-
-
ヘンリーSストークス『英国人記者からみた連合国先勝史観の虚妄』2013年祥伝社
2016年10月19,20日に、父親の遺骨を浄土真宗高田派の総本山専修寺(せんじゅじ)に納骨をするた
-
-
『天皇と日本人』ケネス・ルオフ
P114 マイノリティグループへの関心 p.115 皇室と自衛隊 他の国の象徴君主制と大きく
-
-
平野聡著『大清帝国と中華の混迷』を読んで
ヴァーチャル旅行韓国中国東北編を記述する際の参考に読んでみた。大変参考になったが、筆が走りすぎてい
-
-
QUORAにみる歴史認識 伊藤博文公は、当初朝鮮併合に関しては反対だったって話ですが、実際は如何でしょうか?
伊藤博文公は、当初朝鮮併合に関しては反対だったって話ですが、実際は如何でしょうか?
- PREV
- ウェストファリア神話
- NEXT
- 富裕層の海外脱出