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QUORAにみる歴史認識 日中戦争において1937年の南京陥落の時点で陸軍参謀本部は戦争終結を主張したそうですが、なぜ日中戦争はその後も続き泥沼化したのでしょうか?

公開日: : 最終更新日:2023/05/29 歴史認識

回答するフォロー·3回答依頼4件の回答Furukawa Yutaka, 素人軍事・歴史批評家回答日時: 木

日中戦争で戦争を仕切っていた陸軍参謀本部は、中華民国の首都「南京」を占領した時点で、これ以上の戦争を継続することは、対ソビエト戦が始まる前に、日本が国力・戦力を失うとして、政府に講和を強く働きかけていました。

日本軍が南京を占領する前から、日本政府と軍部の首脳は、早急に戦争を終えるための和平工作に着手していました。外務・陸軍・海軍の三省の首脳は、第三国の公正な斡旋の申出があれば、立ち消えとなった船津工作案の範囲内で和平を受け入れる方針を決定し、10月27日には英米仏独伊に対して、その旨を伝えました。

それに対して手を挙げたのが、蒋介石に軍事顧問団を派遣していたドイツです。日本は1936(昭和11)年11月に、ドイツとの間に共産主義に対抗するために「防共協定」を結びました。ドイツは日本が中国との戦争で戦力を消耗してしまうと、共産主義国であるソ連との戦いに支障を来すため、ドイツの国防上不利になると考えたのです。また、戦争が長引くことで対中貿易に悪影響を及ぼすことも、ドイツにとっては好ましくありませんでした。中国はドイツの貿易にとって大切なお客様だったからです。

10月下旬にドイツのヒトラー総統は、日中の仲裁に入ることを表明しました。11月初旬、日本は和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えています。

その内容は船津工作案を引き継ぐものであり、華北については南京政権に任すなど日本側が大幅に譲歩した内容でした。ディルクセンは「極めて穏健なもので、南京は面子を失うことなく受諾できるのだから、この条件を受諾するやう南京政府に圧力を行使することが賢明」と、本国に報告しています。

ドイツ政府も日本側の和平条件を妥当なものと判断し、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に日本側の和平条件を伝えました。

しかし、蒋介石はいったんはこれを拒否しました。ちょうどベルギー・ブリュッセルにて九ヵ国条約会議が開催されていたため、蒋介石はそこで参加各国が対日制裁を科すことに期待を寄せていたためです。ところが会議では、日本に対する非難決議は採択されたものの、対日制裁は見送られる結果となりました。

日本軍は南京に迫っていました。もはや一刻の猶予もままならない状況に追い込まれてから、蒋介石は12月初旬にトラウトマンと会談しました。

側近の将軍たちは「もしも日本の条件がそれだけであるならば、われらは一体何のために戦っているのか判らぬではないか」「それだけの条件ならばすみやかに応ずるが可なり」と答えたと伝えられています。蒋介石もついに折れ、領土・主権の保全を前提に、日本側の和平条件を話し合いの基礎として受け入れることに同意しました。トラウトマンは帰途の船上において、「会談結果すこぶる有望なり」とベルリンと東京に至急電を打っています。ここまで来たら、あとは細かい条件を確認し合い、日中が同意したところでヒトラー総統の名において正式に調停が交わされるのを待つだけです。

広田外相は念のために陸海軍と改めて協議したところ、「八月初めの案(船津工作案)にて差し支えなし」との回答を得たことにより、日支事変は12月をもって和平へと至る見通しとなりました。戦況が日本にとって圧倒的に有利であったにもかかわらず、陸軍が華北の権益を手放す譲歩案に同意したことは勇断でした。参謀本部には石原の残した「事変不拡大」の意思がまだ息づいていました。多少不利な和平案であっても、1日も早く日中戦争を終わらせることが日本を救うことになると固く信じていたのです。近衛首相と広田外相は、これで和平が成立すると喜び、前祝いの盃を交わしたと伝えられています。

ところが、ここから事態は思わぬ展開を見せます。和平工作は三省の首脳によるトップ・シークレットとして進められたものでした。参謀本部は和平に同意していたものの、陸軍は破竹の勢いで戦勝を重ねていただけに、軍上層部の大半が和平案に反対することは明らかでした。和平が成るまでは秘密に事を運び、和平が成った後に軍部からの猛烈な批判を受ける覚悟が参謀本部首脳にはできていました。ところが、傍受電報の解読やドイツ大使館からの情報によって、和平案の内容は軍部の知るところとなりました。徹底的に武力制圧を主張する強硬派は気色ばみ、「広田斬るべし」と暴言を吐く軍人もいました。「省部ノ下僚色メク」と参謀本部内の日誌にも綴られています。

情報はマスコミにも流れ、和平工作を鋭く批判しました。「支那内外よりする調停説の俄(にわ)かに台頭し来たったことは大いに警戒を要するところである」と、南京陥落が近いにもかかわらず調停に流れる愚を説きました。政府内にも和平交渉の中止を求める声が上がりました。ことに海軍大将として予備役に回っていた末次信正内相は海軍内の強硬派を代表する論者として「徹底的に叩いて懲らしめない限り中国人は日本に協力する民族ではない」と、戦争の継続を要請しました。

やがて12月13日に日本軍が南京を占領すると、国内は早くも戦勝気分に包まれ「対等条件での和平案など愚劣にも程がある」との論調で埋め尽くされました。強硬論に染まる世論の高まりは、近衛首相と広田外相にも大きな影響を与えたようです。連絡会議にて末次内相は強硬論を主張し、会議をリードしました。停戦するのであれば、日本が戦勝国としての待遇を得られる条件を付けるべきだと要求したことになります。末次内相の剣幕に、平等条件での和平を進めていたはずの近衛首相も広田外相も沈黙を続けました。

弱腰の政府首脳に代わり、あくまでも妥協案での和平交渉を進めるべしと抗ったのが、参謀本部の代表者として送られた多田駿参謀次長でした。ことに「トラウトマン工作打ち切り」を唱える政府側(近衛首相・広田外相・杉山元陸相・米内海相)に対し、日中戦争がいかに日中両国民にとって不幸かを涙ながらに説いたことは有名です。多田は繰り返し粘り強く、今こそ和平を結ぶ必要があることを説きました。ところが多田の意に反して杉山陸相はおろか、近衛首相・広田外相さえも次第に強硬論になびいていったのです。

参謀本部はかねてより、南京が陥落しても蒋介石政権が崩壊することはないと判断していました。だからこそ日中戦争が長期化することでソ連が参戦することを恐れ、譲歩してでも講和を実現すべきと訴えてきました。政府にしても早期講和を望んでいただけに、参謀本部は政府と手を携えて講和に向けて努めてきました。ところが南京陥落を受けて近衛首相と広田外相が180度考えを変えてしまうとは、まったく予期していないことでした。「まさか政府が……」と参謀本部はあ然としました。

一般的には、統帥権の独立を盾に参謀本部(軍人)が戦争にはやり、対して内閣(政治家)は和平を求めるといったイメージが強いかもしれません。しかし、この時期は間違いなく逆でした。戦争にかけてはプロフェッショナルの軍人が集う参謀本部がひたすら和平を求めたことに対し、政治家から成る内閣はそれを弱腰だと批判し、強硬論を主張して止まなかったのです。

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