Quoraに見る歴史認識 終戦後に当時のソ連は、どうして北海道に侵攻しなかったのですか?
公開日:
:
最終更新日:2020/12/01
歴史認識
終戦後に当時のソ連は、どうして北海道に侵攻しなかったのですか?
回答を先に書けば、米国との間で、北海道侵攻は約束されていなかったからです。そして、別に攻め込まなくても北海道はソ連のものになるとスターリンが信じていたからです。
ここに示すのは1945年8月16日に米・国防総省が作成した連合国による日本分割占領案です。米軍は占領後に想定されるゲリラ抵抗(いつの時代のどの占領にもあります。近年ではイラクやアフガンでの事態が記憶に新しいところ)での損害を数万と見込んでいて、そのリスクを連合国で分担すべきだと考えていました。
スターリンは米国に送り込んでいたスパイ網を通じて、このプランを知っていたと思われます。そして、当日(8月16日)トルーマン大統領に北海道の占領を要求します。
一方、米国務省は早くからルース・ベネディクトなどの人類学者に依頼して日本人の民族性を基に占領政策の研究を行っていて、その結果、「米軍が想定するようなゲリラ抵抗は起きない」という内容の結論を得て、「米国単独占領で日本政府を存続させての間接統治をおこなうべきだ」と言う勧告書を作成して大統領に提出していました。
トルーマンは48時間の熟慮の末、国務省の勧告を受け入れスターリンの要求を拒否します。本当にスレスレの決断でした。日本人の知らない間に、北海道の命運は180度変わったのです。よく、ソ連が日本の敗戦を知って勝手に攻め込んできたと勘違いしている人がいますが、そうではありません。(そんな勝手なことをしたら米国が黙っていません)ソ連は連合軍の一員として、約束を守って参戦しています。
米国は、太平洋諸島などでの損害の大きさから、単独で日本本土への侵攻作戦を行った時の損害予測にたじろいでいました。そこで、ソ連に共同侵攻を持ちかけたのです(ヤルタ会談の極東密約)。スターリンは当初、日ソ中立条約を盾にこれを断りましたが、米国は国際法の専門家の意見も添えて、「国連憲章にもとづく大義により個別の条約違反は国際法に違反しない」との見解を添えて説得を続け、スターリンを口説き落としました。
しかし、スターリンは最小の犠牲で最大の効果を得るためにタイミングを見計らっていました。そして、事実上の終戦後になって、ようやく約束の軍事行動を起こします。米国側が鼻白んでいたのは隠しようがありません。冷戦がはじまっていたこともあり、米国は1956年に、ヤルタ協約はルーズベルト氏が個人的に行ったもので、米国政府はあずかり知らない、とまで言っています。
関連する事項を時系列でまとめると以下の通りです。
1945年
- 2月4日-2月11日、ヤルタ会談で樺太(サハリン)南部及びこれに隣接するすべての諸島、千島列島、満州権益と引き換えにソ連が対日参戦を約束。
- 8月8日、ソ連対日宣戦布告
- 8月9日、ソ連対日参戦
- 8月15日、日本ポツダム宣言を受諾
- 8月16日、スターリン、北海道の半分をソ連占領地とするよう、トルーマン大統領に要求
- 8月16日、米・国防総省の日本占領案「日本とその領土の最終占領(Ultimate Occupation of Japan and Japanese Territory)」(JWPC385/1)成立。それによれば、ソ連の占領地は北海道、東北地方
- 米国務省、独自の分析により「日本人の占領後のゲリラ抵抗は起きない」との結論を得て分割統治の回避を勧告。(ルース・ベネディクト「菊と刀」などの分析による)
- 8月18日、トルーマン大統領は国務省勧告を受け入れ、ソ連占領を拒否。
- 8月22日、日本政府を存続させての間接統治案を承認。
- 9月2日、日本、降伏文書に調印。日本占領開始。
ソ連が4月に日ソ中立条約破棄と同時に日本侵攻を開始していたら、北海道はソ連領になった可能性もあったように思います。
関連記事
-
-
🗾🎒三重県一身田 父親の納骨と道中の読書 『マヤ文明』『英国人記者からみた連合国先勝史観の虚妄』 2016年10月19日、20日
父親の遺骨を浄土真宗高田派の総本山専修寺(せんじゅじ)に納骨をするため、山代の妹のところに行き、一晩
-
-
歴史認識と書評『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏 』長谷川毅
日本降服までの3ヶ月間を焦点に、米ソ間の日本及び極東地域での主導権争いを克明に検証した本。
-
-
歴史認識と書評『ユダヤ人大虐殺の証人』河出書房新社
ユダヤ人虐殺の証人として映画『ショアー』にも出演したポーランド人カルスキの苦悩を描く衝撃の作品。
-
-
『日本軍閥暗闘史』田中隆吉 昭和22年 陸軍大臣と総理大臣の兼務の意味
人事局補任課長 武藤章 貿易省設置を主張 満州事変 ヤール河越境は 神田正種中佐の独断
-
-
観光資源としての吉田松陰の作られ方、横浜市立大学後期試験問題回答の例
今年も一題は、歴史は後から作られ、伝統は新しい例を取り上げ、観光資源として活用されているものを提示
-
-
Quoraに見る歴史認識 日露戦争の勝利を日本国民はどれくらい喜びましたか?
実際には、ロシアの極東での圧力を押し返して講和が結ばれただけだから、講和によって得られたのは、遼
-
-
QUORAにみる歴史認識 アルメニア虐殺
アルメニア虐殺の歴史的背景はあまり知らてないように思いますが、20世紀の悲惨な虐殺の一ページとし
-
-
QUORAに見る歴史認識 香港国家安全法について、多くの中国本土の人々はどのように考えているのでしょうか?
私は初めて香港に行ったとき、深セン税関の前で大声で怒鳴っている香港人たちがいて、聞き取れたのは"香
-
-
QUORAにみる歴史認識 第二次世界大戦時、なぜ戦況は悪化したのに、(日本は)戦争は辞められなかったのですか?
第二次世界大戦時、なぜ戦況は悪化したのに、戦争は辞められなかったのですか? 日本では、開戦時
-
-
QUORAにみる歴史認識 大坂なおみが二重国籍を認められたことで、日本は二重国籍を認めていることが表に出ましたが、これまで二重国籍はダメだと思いこまされてどちらかの国籍を諦めたり、秘密にしてきた人も多いのではないですか?
大坂なおみが二重国籍を認められたことで、日本は二重国籍を認めていることが表に出ましたが、これまで二