混浴は伝統ではない 『温泉の日本史』『温泉の平和と戦争』を読んで メモ
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最終更新日:2023/05/30
伝統・伝承(嘘も含めて)
書評に「論文等を査読・掲載する学会誌を年2回刊行、全国の温泉地で年2回開催している研究発表大会が基本活動内容なのは、他の学会と同じです。ただ、研究活動を通じて温泉地域の発展に寄与することを目的としているのはユニークで、大切だと思います。私自身はとくに「総湯(そうゆ)」という歴史的な共同湯の研究を続けており、石川県加賀温泉郷の山中、山代(やましろ)温泉に代表されるような総湯広場を中心とした温泉地の活性化に注目しています。」と出ていいた(http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/110064.html)。総湯のイルージョンがまた膨らんでしまう。
アマゾン書評「本邦での温泉通史。万葉集の「熟田津」の昔から、今日までの歴史を綴る。中世の「隠し湯」や村の共有財産的だった温泉の転換点になったのは江戸時代に大衆化して以降。特権だった湯治が大衆化し娯楽になっていく。明治の地租改正で公有地と私有地の峻別が進む中、入会権扱いだった温泉の存続が危殆に瀕したこと、外湯中心の温泉場から内湯の温泉街への進化、自噴の源泉から動力汲み上げの源泉への転換等、温煙の向こうで本質的な変化が起きていたのは興味深い。改めて「公共財としての温泉」を見直す視点が新鮮。」法学士の書物だから視点がしっかりしている。
しかし、私の経験からは、山代温泉ではどこを掘ってもお湯が出てくるので、庶民には井戸を掘らせないで、そのかわり清水口と呼ばれる給水所を配置していたと聞いているから、民主的でもなかったはず。山中温泉は、新家熊吉が旅館業に進出してきたときに、財力でかなわないと思った既存旅館業者が結託して、温泉の権利を山中町に移管したと聞いている。
片山津温泉は明治以降の温泉で、総湯概念自体がなかったはずで、財産区も解消してしてしまっている。
山中の海軍病院、山代の陸軍病院の歴史は面白い。
しかし一番の面白い記事は混浴。
あとがきに歴史的には湯具着用こそ入浴のスタンダードだった。新しい湯ふんどしを着用せず入ろうものなら叱られるのが、草津をはじめ温泉地の習いであった。江戸の銭湯が混浴禁止令を無視しようとしたのは、商売上の理由が大きく、今日の混浴風呂にもあてはまる。裸での入浴は伝統というほどのものではないのである。一方、湯具の有無を問わず、西日本を中心に男女別浴の温泉地が多かった
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