自然観光資源と沿岸風景(概論)
1 風景観の変化
自然を見る視点が移動手段の発達により変化し、沿岸の風景観も変化してきた 。移動手段が徒歩から船、船から鉄道、鉄道から航空機へと変化するごとに日本人の風景観も変化したが、宇宙船からの風景は人類の風景観を変えるかもしれない。 その一方で、バーチャル技術により自然を見て感じる『差異』は少なくなってゆくであろう。なお、日本では歴史的に馬車からの風景が欠落している。悪路の旅は欧州でも風景を愛でるものではなったことが紹介されている(鹿島茂『馬車が買いたい!』)。トラック運転手が胃下垂のため40歳前にリタイアした昭和30年代の日本の悪路を阿川弘之は紹介している(『空の旅・船の旅・汽車の旅』)。
鉄道の車窓からの風景はイギリスの人々には退屈なものと映ったようであり、貸本屋が繁盛した(ヴォルフガング・シヴェブルブッシュ著『鉄道旅行の歴史』~19世紀における時間と空間の工業化~)。風景も人間の認識であるから、文化を反映したのである。富士山を背景に走行する新幹線の風景は、時代により見る人の風景観を反映するのである。和歌等にみられる定数名所のように、「意味の風景」であったものが、交通手段の発達により、「視覚の風景」へと変化してきた。そこには、地理学の発達が影響している。航空機からの風景観は、環境保全思想の発達ともに、風景の等質化、数値化をもたらし、等質的な画面で見るバーチャルな風景へと変化させている。
2 里山里海伝説の誕生
森林学の泰斗・太田猛彦(東京大学教授)は江戸の里山ははげ山であると記述する(『森林飽和』NHKブックス)。武井弘一(琉球大学准教授)も江戸時代の水田政策を見直している(『江戸日本の転換点』NHKブックス)。両者とも江戸時代が環境にやさしいエコ社会であるという近年登場した俗説を見直しており、現代人が沿岸を見る眼にも変化をもたらしている。
イノシシに代表される鳥獣被害が大きく報道されるが、果たして被害なのであろうか。クマやサルが戻って来るのは当然とも思えるからである。現代社会の里山では総じて生態遷移が進行し始めた。これは太田猛彦が指摘する「里山の奥山化」を意味する。人が山林資源を利用しなければ奥山に変わってゆくのは必然である。里山の原風景ははげ山だらけであったことを浮世絵は証明している。
里地・里山論に迎合するマスコミ、学会、自治体に太田猛彦は痛烈な批判をする。日本政府は、里地・里山社会は生物多様性維持・保全のお手本になるとして、「SATOYAMAイニシアティヴ」を発信している。これを歓迎するマスコミ論調の氾濫から、かつての里地・里山システムがすべて持続可能な社会のお手本であったかのような錯覚が国民の間に生まれている。その結果、無批判にエコツーリズムを受け入れる観光学者、自治体が増加してしまった。
3 江戸史観の見直し
江戸イメージの転換の転換が発生している。「歴史は後から造られる」の典型例である。
明治以後、江戸時代の社会は、概して否定的に見られてきたが、日本社会が高度経済成長を終了し環境問題など、さまざまな矛盾が露呈した。その結果、低成長で持続可能な経済のモデルが江戸時代にもとめられ、いわゆる薩長史観、マルクス史観が見直されるようになった。武井弘一は、江戸時代にそのような静的な社会があったという見方を再転換させた(『江戸日本の転換点』)。
江戸時代17世紀の「日本列島改造」により、見渡すかぎり広がるような水田の風景が生まれた。それまで水田は主として山地にあった。加賀藩が近世を通じて開発した新田が約35万石である。18世紀、発展は飽和状態に達し、最大の問題は、地味の低下による肥料の必要が生じた。その結果、草山がつぶされ、干鰯などの肥料が使われるようになった。そのために、農業は貨幣経済の中に巻き込まれた。また、それまであった生態系の循環が壊れた。百姓は貨幣経済に巻き込まれ、草木を丸々刈り取られ棚田となった里山は土砂崩れを起こした。また、新田開発のための土木・治水工事の出費が藩財政も圧迫した。
4 「森林劣化⇒飛砂⇒海岸林」の循環の終焉
山崩れや土石流が頻発し、水田には洪水が氾濫し、海岸では飛砂が襲ってきた。日照りが続くと水不足、人々は毎年そのような災害と戦いながら暮らしていた。その最大の原因は森林の劣化だった。そのような意味で、豊かに生い茂った現代の森林と比べると「里山は一種の荒れ地生態系」といっても過言ではなかった。
森林の劣化は洪水氾濫だけではなく飛砂も引き起こした。その防止対策が江戸時代の海岸林の造成であった。戦国時代末期から江戸時代にかけて沿岸地域の人々が大変な苦労を重ねて造成したクロマツ林はれっきとした人工林であり、三百年かけて砂丘を中心に日本の海岸線は緑の帯で覆われるようになった。
森林劣化の大きな原因は生活の向上である。塩の需要が増加し、塩木山の酷使が森林荒廃につながった。中世後期以降陶磁器生産が飛躍的に伸長した。17世紀肥前で連房式登り窯がつくられ本格的磁器生産開始 され、森林劣化を加速した。肥前から加賀九谷に磁器生産技術が伝えられた。加賀九谷焼360年の歴史は加賀海岸誕生の歴史でもあった。
海岸浸食の再認識も必要である。森林劣化がストップした結果なのである。河川からの土砂供給の減少に主要な原因があると、海岸浸食に関する認識を確認する必要がある。「砂丘の浸食量の増加」と「森林の成長による山地からの流出土砂量の減少」は比例する。14世紀頃までは日本全体を見れば山地からの土砂流出量と海岸での浸食量は平衡していたが、飛砂害の増加により、海岸林の造成がはじまった。15世紀以降は人口が千万人規模で増加し、それに伴って山地・森林の劣化による土砂流出が増加した。17世紀に入ると三千万人規模になり、土砂流出量が急激に増加した。そのため以降三百年ほどは砂丘拡大の時代が続いた。
今から百年ほど前から状況が変化した。過去半世紀程度の間には砂丘は縮小する傾向にある。現在は飛砂の害は明らかに少なくなっている。日本の自然環境の大きな変化は、数十年の間に起きた急激でしかも劇的なものである。飛砂の減少を生んだ山地・森林の変化が国土全体に統一的に理解できるようになった。二十世紀におこり今も静かに続く国土の変貌とは何か。一言でいえば太田猛彦が言う『森林飽和』である。
ひところ「自然崩壊」という言葉によって「日本の自然が破壊されている」というイメージが一般に定着したが、そろそろ脱却しなければならない。日本の自然は飽和状態にある。これは自然がたくさんあるから問題がないということではなく、新たな荒廃が始まっている。日本列島における森林は千数百年来人間の活動から直接的に影響を受けている。
森林は二酸化炭素を減少させるという常識があるが、地球温暖化抑制と森林光合成作用は無関係である。樹木成長の間は、森林の蓄積(炭素の蓄積)量は増加するが、一般に樹木が十分に成長すると、吸収量と放出量は一致する。地上にたまった落ち葉や倒木は微生物によって直ちに分解され大量に二酸化炭素を出す。日本は50年ほど前まで森林が衰退していたので現在まで成長中であるが、もうしばらくでおわってしまうと、太田猛彦は『森林飽和』において警告している。
5 風景が欠如する平安文学
後世平安文学といわれるものは、当時は全く一握りの人々の娯楽として存在したようである。当時の読者層は、漢文学か説話が中心であった。かげろう日記は極めて例外であった。変化に富んだ自然の風景を見て美しいと感ずるのは現代人の常識となっているが源氏物語にも枕草子にも、海岸線のような自然描写の細かなものはない。女房たちの生活の中に大海原といった大自然と対決するというような場面がなかったからである。これに対して平安時代の女人は、男女の機微等人間に関する美については大変詳密繊細に表現している。馬渕和夫は『奈良・平安ことば百話』の中でこのことを述べている。
6 海岸風景の発見
中世の伝統的風景とは、歌枕(歌名所)や名所旧跡に代表される定型的、類型的な風景であり、「意味の風景」であった。一方、近世に入ると風景の見方に新しい変化が芽生えてきた。いくつかの危険な灘が連なっている場にすぎなかった海も、江戸中期から後期には徐々に広域の海域概念「瀬戸内」が使われはじめていた。海上交通と地理思想の発達が瀬戸内海を示す広域の海域概念を必要としていたのである。旅が大衆化した江戸後期には瀬戸内海を広く捉えるまなざしが生まれてきていた。広域の海域概念「瀬戸内」は江戸時代末期にかけて人々に徐々に浸透していった。
明治になって決定的な変化が訪れた。開国にともない幕末から明治にかけて、おびただしい数の欧米人がわが国を訪れ瀬戸内海を賞賛した。この近代に科学や文学や絵画などの素養を身に付けた欧米人の賞賛をきっかけに、日本人も瀬戸内海に新しいまなざしを投げかけるようになった。欧米人の風景観を受容したのである。
西洋において、海洋の風景が発見されたのは17世紀 、森林や田園のような風景が発見されたのは18世紀、山岳地などの大自然の風景が発見されたのは19世紀、落葉広葉樹の自然林や湿原の風景が発見されたのは20世紀になってからのことである。欧米の風景観が日本に浸透しはじめるのは20世紀になるころであった。
16世紀から19世紀初めにかけてのイエズス会士とオランダ商館員は、瀬戸内海の風景を賞賛することはなかった。その一方、幕末から明治にかけての欧米人は瀬戸内海の風景を賞賛した。19世紀には少し入って、瀬戸内海の風景は欧米人によってようやく捉えられはじめたのであり、そのような風景を捉える風景観があらわれたのである。当時の日本人にとって瀬戸内海はまだいくつかの灘にすぎなかったが、欧米人は「内海」「多島海」「湖」「河川」「運河」「海峡」といった近代の豊かな地理的概念を自由に駆使して瀬戸内海の風景を捉えたのである。
尾道・下関間の広域海域概念「瀬戸内」は、明治時代に「瀬戸内海」としてその区域を東へ拡大する。「瀬戸内海」の言葉が使われだした初期のころは、淡路島より西、つまり、大阪湾を除いた、明石海峡と鳴門海峡から以西の関門海峡までをさしている例が多い。その後、明治後期になり、現在と同様の紀伊水道、関門海峡、豊後水道に囲まれた区域に固定された。
7 国立公園の誕生
1872年にアメリカで国立公園が生まれたのは、西部開拓や天然資源開発による自然保護の必要性が生まれたことや、鉄道建設計画を推進するために観光資源の存在を強調しなければならなかったことがあげられる。また歴史が浅く多民族国家のアメリカにとって大自然こそがアイデンティティやナショナリズムを培ってくれるものとなることがあげられる。
日本では1919年に史蹟名勝天然記念物保存法が公布された。この頃は史蹟名勝天然記念物と国立公園は渾然一体として論議されていた。1931年に国立公園法が制定された。背景には、内外観光客誘致による地域振興、外貨獲得への期待のほか、ナショナリズムや郷土意識の高揚があった。国立公園は近代ツーリズムや近代国家という枠組みなくしては生まれなかったといわれる所以である。しかし、どの区域を、どのような理由で、選定するかについては、社会的、経済的な要因では説明しきれない別の要因が働いていたといえる。
1934年瀬戸内海国立公園が正式に指定された。1922年の国立公園の候補地は「小豆島・屋島」であったが、1932年には備讃瀬戸を中心とした国立公園「瀬戸内海」となった。この過程には何があったのか。ここには、伝統的風景から新たな近代的風景「内海多島海」を取り込む動きが見られた。古くからの名所旧跡として有名な「小豆島」「屋島」に伍して、新しい近代的風景「備讃瀬戸」が台頭してきたのである。
8 静的水平景、俯瞰景、動的水平景
陸地の海岸或いはその付近の高台から視線をほぼ水平に島々を眺める風景は静的水平景(シーン景)である。島々は重なり合い重複して見える。高所である山地から島々を眺める風景は俯瞰景(パノラマ景)である。島々は離れ分散して見える。更にもう一つは船の視点から島々を移り行く風景として捉える動的水平景(シークエンス景)である。視点はほぼ水平であり、陸地の海岸からみた風景と同じように島々は重複して見えるが、その重なり合いが変化する。
西洋の見方を移入した明治後期の日本人も瀬戸内海の多島海景について当初シークエンス景を重視していた。瀬戸内海の島々が分散するパノラマ景の視覚は江戸後期に徐々に見出されていった。ヨーロッパ人は船からのシークエンス景をめでた。瀬戸内海の汽船航行が明治十~二十年代に、瀬戸内海沿岸鉄道が明治二十~三十年代に普及し、シークエンス景から俯瞰景への逆行もこの交通の発達に同調していた。展望地という陸上からの視点が発見されはじめ、海路からの風景が陸路からの風景へと変換された。
海上の船からの風景として評価をえていた瀬戸内海の風景は、一度その評価が確立するや、内容とは無関係に評価のみが一人歩きし、いつの間にか陸上の展望地からの風景が評価されるようにすり替わってしまった。 世界の人が誉めていると引き合いに出し、瀬戸内海の展望地からの風景を推賞するが、じつは世界の人が誉めたのは船からの風景にすぎなかったと西田正徳は『瀬戸内海の発見』のなかで述べている。クールジャパン戦略の陥穽もそこには潜んでいるかもしれない。
9 国立公園法から自然公園法へ 空間の均質化
初期の国立公園の保護は人から見える風景を保護しようとするものであったが、その後、国立公園法が自然公園法に改題されたのは昭和32年であった。国立公園の保護は、人の視点に関係なく、自然性の高い植生を保護するなど、自然性、原始性の保護にシフトしいった。そこには保護の主眼が、風景保護から自然保護、又は風景、景観から環境と移行した過程が読み取れる。眺めという人のまなざしを重視した審美的な風景保護から、自然科学の評価に裏付けられた眺めを重視した景観保護へ移り、そして生態系や生物多様性といった概念を重視した環境保護へ移行していったのである。
現代の国土は経済的な観点から数値的に捉えられ、その結果至るところが均質な空間に変貌していった。現代は自然科学を武器に自然保護を推進している。その自然保護は、生態系、生物多様性、持続可能な利用の考え方などに収斂してきた。しかし、これらを重視するあまり、相対的に風景の地位の低下を招来した。その結果、どこに行っても同じように見えてしまう、風景の相対化、日常と非日常の相対化現象が発生し、観光行動そのもにも影響を与えるようになってきたのである。
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