*

🌍👜シニアバックパッカーの旅 2018年5月15日 莫高窟、玉門関、夜市 ルートから外れれば寂れる

公開日: : 最終更新日:2023/06/15 シニアバックパッカーの旅

15日 莫高窟、玉門関と夜市

https://photos.google.com/photo/AF1QipO65d0E4H6CS3UAoep3CmCe2JHU_1vsxfakLBpZ

元の支配下に入る頃になると中国と西方を結ぶルートがシルクロードから南方の海の道へと移行し始め、敦煌の価値は下落し、寂れた町へとなっていったらしい。いま日本で地方再生と叫んでいるが、古代からルートから外れれば寂れるものだということの認識も大事なのである。

敦煌はその後、長らく忘れ去られた町となり、莫高窟も見向きもされていなかった。しかし1900年、この地にいた道士・王円籙(おう えんろく)が偶然に莫高窟中の第16窟の壁の中に隠されていた耳窟(第17窟, 後に「蔵経洞」と命名)から大量の文献を発見した。この報告を受けた地方官と王円籙は学術的見識を有さず、この文書はしばらくの間は放置された。1907年にその噂を聞きつけてやって来たイギリスのオーレル・スタインが王円籙から数千点の文書・絵画を買い込んでイギリスへと持ち帰った。翌年にフランスのポール・ペリオが同じように約三分の一に相当する文献をフランスへ持ち帰った。これらが大英博物館フランス国立図書館に蔵され、研究者の間で敦煌の名が広く知られるようになった。海外流出を知った清政府は、学部を派して北京へと文書を移動させた。移動中に現地収集家の手に流れ、一部が民間流出したが、これら敦煌文書北京京師図書館で保管されている。 後に入った各国の探検隊は、ロシア(1909-1910年)、ドイツ(1914-1915年)、日本の大谷探検隊(西本願寺の大谷光瑞によって派遣された)・アメリカ合衆国の探検隊が少量であるが、入手して研究を進めた。これら敦煌文献の発見が、後の『敦煌学』への契機となった。現代では、すべての敦煌文書をデジタル化して、若手研究者が自由に使用できるようにするといいだろう。AIを活用すれば、自動翻訳も可能になり時代が来る。そうすればさらに過去のことが明らかになるに違いない。

二階以上の洞窟にはコンクリート製の階段を利用して観光客は見ることができるが、もともとはついていなかった。だから昔の人は見ることが大変であったろう。写真を見て階段が付いた莫高窟があたり前のように思うが、本当は全く違うものであったのだ。

敦煌の壁画も二酸化炭素により変化するから、できるだけ観光客は入れないほうがいいのであろう。現在われわれが見学するとき、3Dを含み2回映画を見させられる。どうせ素人には本物を見てもわからないだけであるから、すべてヴァーチャルにしてもかまわないのであろう。難しいのは行き過ぎると自宅のパソコンで済んでしまうから、それではコスト回収が難しくなるかもしれない。いずれにしろ、ガラパゴスや敦煌遺跡は数を極めて限定したものにするといいであろう。その意味で、有料の洞窟は、学芸員から指定されたものに限定している点は素晴らしい。これぞ着地型観光であり、着地型というのは、来てくださいではダメなのである。

文化大革命時代、莫高窟も危なかったらしいが、周恩来が阻止したとガイドの李さんは説明してくれた。黄土高原の遺跡は紅衛兵によりかなり破壊されたらしい。

昼食後玉門関に向かう。私には南の陽関の方が、唐代の詩人王維の詩「西出陽関無故人(西のかた 陽関を出づれば故人無からん)」の句(といっても、金大付属高校の漢文の授業で、高瀬先生から教えてもらった程度だが。それでも今でも覚えているのだから、子供の教育は重要である)で覚えているから親しみがわくのだが、時間の関係上北の玉門関の方に向かう。どうせ見てみても私は区別がつかないから同じだ。敦煌~玉門関まで専用道路みたいなもの。途中に監視カメラがあり、スピード違反も簡単に見つかるから、皆慎重運転である。砂漠といっても、ラクダ草が生えている。葉が針上になっており、ラクダはそれを上手に食べる。キリンの舌と同じなのである。進化の過程で生き残ったものが駱駝であり、それをうまく活用したのが人間である。ここでも結婚衣装を着たカップルの写真撮影。雲南省でも見かけたが、プロのモデルかもしれない。

帰りに、敦煌古城を見かける。80年代、映画「敦煌」の撮影用に作ったもので、古城ではない。日本人は敦煌が好きだから、敦煌では日本語表示の案内も見かけるが、西安ではハングルはあっても日本語はなかった。学芸員やガイドに日本語のスタッフがいるのも、昔の日本人観光客のおかげである。今では日本人観光客の力はなく、巨額費用のかかる映画の撮影など夢である。

沿道にブドウ園を見かける。敦煌ワインとして有名だそうであり、ホテル到着、夕食時に莫高窟ワインを注文。その後、夜市にでかける。一人でいても百度地図が使えるから安心であった。

関連記事

🌍🎒シニアバックパッカーへの旅 2022年5月11日 トルコ アンカラ 

https://photos.google.com/album/AF1QipM3Mz4jDm

記事を読む

no image

🌍🎒シニアバックパッカーの旅 2023年4月23日 モンタルチーノ

  モンタルチーノ(未定稿) Facebook 当初の計画ではモンタルチーノは考えていなかった。

記事を読む

🌍🎒シニアバックパッカーへの道 2007年8月15、16日 南アフリカ 国連加盟国37か国目 ケープタウン アパルトヘイト

ロベン島[/caption] [caption id="attachment_39780"

記事を読む

🌍🎒シニアバックパッカーへの道 フランス・ポルトガル(国連加盟国23か国目)(1999年8月22日~29日 国土庁長官随行 )

国土庁長官官房審議官時代に、関谷長官の海外視察の同行をする。関谷勝嗣建設大臣兼国土庁長官は、政治的に

記事を読む

🌍🎒シニアバックパッカーへの道 2007年3月30~31日 カンボジャ(国連加盟国33か国目)シェムリアップ

GOOGLEPHOTOアルバム2007年3月30~31日カンボジャ・シムリアップ https:

記事を読む

🗾🎒シニアバックパッカーの旅 観光研究会メンバーと岳温泉

11月8日、9日溝尾良隆帝京大学教授のもと、福島大学の方々と共同で岳温泉を訪問しました。 岳温

記事を読む

🌍👜シニアバックパッカーの旅 2008年5月12日 成田から⒃陝西省西安 13日 城壁、大雁塔、華清池

12日 ユーラシア旅行社の企画旅行に参加。シニアバックパッカーとしては不本意ではあるが、チベットには

記事を読む

🌍🎒シニアバックパッカーの旅 4月25日午後~26日早朝 マルタ騎士団(国連未加盟🏳‍🌈㉝) ローマ・テルミニ

2022年4月25日午後 ローマ googlephoto  https://photos.g

記事を読む

🌍🎒シニアバックパッカーの旅 2022年5月14日 ディジョン DIJION 

facebooK投稿文 2022年5月14日 リヨンは結局1時間遅れて出発。ローカル列車も快

記事を読む

🌍🎒シニアバックパッカーのへ道 1981年 米国⑵ニューヨーク、⑶ワシントン ⑷バージニア州ウィリアムスバーグ、⑸イリノイ州シカゴ、⑹ハワイ州ホノルル

1980年情報管理部内で、調査企画課から情報処理課に移動。日本電電公社からの出向者、松原(技術)、名

記事を読む

PAGE TOP ↑