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🌍🎒シニアバックパッカーへの道 1983年 シンガポール(国連加盟国7か国目)マレーシア(国連加盟国8か国目)タイ

公開日: : 最終更新日:2023/06/11 シニアバックパッカーの旅

官房副政策計画官(物流)時代に、のちに運輸事務次官を務められた梅崎海洋課長とともに、ESCAPの会議への参加が命じられた。当時のアセアン諸国等の国際力の水準から、さほど重要視されていない会議だったから、私にお鉢が回ってきたのであろう。仕事の関係上、日通総合研所や日本長期信用銀行とのお付き合いがあり、バンコクでの夕食でそれぞれお世話になった。和田JNTO所長にもお世話になったが、依然として予算に制約があり、気の毒であまり無理はかけられなかった。ESCAP事務局には、国鉄からエンジニアが出向されており、国鉄改革後JR東海の役員に戻られた。ジムトンプソンのネクタイ、オーキッドフラワーとともに、ドリアンを手に入れ、密閉して家族の土産に持ち帰ったことが懐かしい。

シンガポール

ESCAP参加の機会に、先にシンガポールにゆき、鉄道でマレーシア、タイと移動した。シンガポール大使館には大蔵省から、大学時代のゼミ仲間の武田氏が出向しており、運輸省からの船舶アタッシェとともに、食事に二次会までお世話してくれた。JETRO出向者の船舶技官は、夜遅くまで市民が夕涼みをし、屋台も出ている公園に連れて行ってくれ、翌日はマーライオンを見に連れて行ってくれた。当時はこれぐらいしか観光資源はなかったのである。後の近代的なシンガポールからは、想像もつかないものであろう。今なら、日本軍占領時代関係のものを見る行くこととなろうが、当時はその発想が浮かんでこなかった。

 

マレーシア

翌日シンガポールから列車でクアラルンプールに向かう。列車はゴム林の密林を通過する。車内にはカービン銃を構えた兵士が同乗しており 共産ゲリラ対策。食堂車に行ったが、二重ガラスの窓枠に苔が生えており、不衛生な感じがして、食堂車では食べる気がせず、クアラルンプールまで何も食べずにいた。ホテルで、マレーシア大使館の運輸アタッシェが迎えに来ていると思い、しばらく待っていたが誰も来なかったので、結局クアラルンプールは何も観光できなかった。翌朝、運輸アタッシェがきており、バンコク行きのため空港まで送ってもらった。この時の印象では、クアラルンプールがここまで発展するとは想像もできなかった。なお、錫の名産地であり、土産にはセランゴールピュータのカップを購入したのだが、いつの間にか我が家から消えてしまった。

マレー半島鉄道縦断画像

参考

マレーシアの歴史のなかで、いろんな意味で影響を残したマラヤ共産党についての論議は避けることができない。今回は共産党の動きとなぜ浸透しなかったのかを見ることにする。

マラヤ共産党のおこり

東南アジアの共産党は中国共産党との関係が深く、マラヤ共産党も例外ではない。マラヤ共産党の前身は「南洋共産党」といい、今の東南アジア全体を含め、中国共産党員が中心となって結成。1930年にはマレー半島を統括するマラヤ共産党と改称した。
党員のほとんどは華人学校の教員や労働者を中心とした中国人だった。反帝国主義を唱えたマラヤ共産党は当然、マレー人やインド人の参加にも力を入れ、全マラヤ民族解放同盟やマラヤ反帝国主義同盟などを組織したがほとんど成功せず、以後中国人メンバーが主体となった。
第二次世界大戦中は、日本軍がマラヤで中国人敵視政策を導入したため、マラヤ共産党はマラヤ人民反日軍(MPAJA)を組織し、反日運動を展開。親日的なマレー人は日本軍に協力的であったことから、民族間の亀裂をさらに深めることにもなった。

対立と対話

戦後、共産党は法にのっとったかたちで活動をする。特に労働組合の設立に力を入れ、これがある一定の成功をもたらした。労働組合を通じてストライキを敢行し、労働者の要求を英国側にのませたりなどした。しかし、47年3月の中央執行委員会では、すでに二重スパイとして疑われていたライテク書記長が党資金とともに雲隠れしたことから党の姿勢が一変する。
新しく党の書記長に就任したのは、若干26歳のチンペン(陳平)氏。この頃から労働組合の統制がうまくいかなくなったことから、新書記長の下で武装闘争を始めた。48年、英国政府は欧州系のプランテーションで経営者5人が殺されたことを発端に非常事態宣言を発令。以後、マレー半島全域で共産ゲリラが暴れまわる。
英国政府はゲリラ撃退のため、食料統制など様々な施策を講じた。その一つとして有名なのが、50年代半ばまでに地方の村でのゲリラ支援を断ち切るため行った施策で、地方の村々に住む約50万人を「新村」に強制的に移し、フェンスで囲って、警官を配備して監視下に入れた。
1955年にはマラヤ連邦史上初の総選挙が行われ、ラーマン氏が率いるUMNO -MIC連合が圧勝。同連邦の首相(Chief Minister)となったUMNOのラーマン総裁は共産党員に恩赦を設けるが、それに反応した活動家は少数だった。一方で陳平は中国での路線変更も加味して再び平和路線に傾き、ラーマン首相と会談をもった。
同年12月末にケダ州バリンで会談が開かれた。英国政府の強い反対を押し切っての開催となり、現政権と共産ゲリラの首脳との直接対話という前代未聞の会談で、世界から注目を浴びた。会談では、ラーマン首相は陳平に武装解除と投降を強く提案するが、共産党側は拒否。結局、会談は決裂に終わったのだが、同首相は平和裏に独立を勝ち取るという重要なメッセージを世界に示した。
マラヤ連邦はその2年後に独立。同首相は58年8月までに非常事態宣言を解除したいと明言したが、非常事態宣言は60年になって解除され、12年間で1万人以上が犠牲となった。
共産党はその後、タイとの国境沿いで活動し、60年代後半に再び武力活動を活発させたが、ことごとく失敗に終わった。
63年に結成されたマレーシア連邦政府は、74年に共産党の封じ込めを狙って中国と国交を樹立する。これに伴い、中国共産党からマラヤ共産党への支援が極めて限定的になり、マラヤ共産党の活動も収縮していく。そして、89年にはタイ南部のハジャイでタイ政府の仲介のもと、マレーシア政府とマラヤ共産党は和解で合意し、事実上、共産党は解体した。

共産党への拒絶反応

それでは、ほかの東南アジア諸国と比べて、マレーシアではなぜ共産党が受け入れられなかったのだろうか。特にマレー人の支持拡大が必要不可欠だったが、なぜ浸透しなかったのか。
神を否定する共産党はイスラム教と相容れないとの論もあるが、そうだとするとイスラム教徒であるインドネシア人の間でなぜあれだけ一定の勢力となったのか疑問が残る。
マレー人が拒絶反応を示した主な理由は、「移民」であった中国人が共産党を組織し、さらに暴力で政権奪取を狙ったことにある。歴史的に各民族は別々の空間で生活し、19世紀には両民族が抗争に発展して亀裂が生じていたが、48年の非常事態宣言でマレー人の間では決定的な憎悪が生まれた。元来、温厚な性格であるマレー人は、「移民」である中国人が暴力で政府転覆を図ることに大きな不満を感じ、これが共産党のイメージを大きく損ねた。ラーマン首相はバリン会談で陳平に対し、「暴力行為に訴えない限り、共産主義のイデオロギーについては気にしない」と語り、共産主義の思想を否定しなかったところをみる限り、多くの犠牲者を出した共産党の暴力行為が、浸透しなかった直接的な原因とみていいだろう。

マレー半島に伸びる中国の鉄路(下):高速鉄道計画で日本の出番はあるか?

https://globe.asahi.com/article/12640517

 

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