用語「観光」誕生物語 朝日新聞記事データベース「聞蔵」に見る昭和のクールジャパン報道分析
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最終更新日:2023/05/28
ジャパンナウ観光情報協会, 人流 観光 ツーリズム ツーリスト
2014年10月10日にジャパンナウ観光情報教会観光立国セミナーで行った講演の議事録です。HPには使用したパワーポイント資料と帝京平成大学紀要に投稿した論文原稿をアップしてありますので合わせて目を通していただけるとありがたいです。なお、この講演の後、読売新聞データベース分析等を実施しており、その内容等も以前のブログに掲載してあります。
講演録
はじめに
今日は、帝京平成大学にお世話になりましてから書いた最初の論文に近いものですが、たまたま帝京平成大学が朝日新聞の「manaba」という、今はやりのeラーニングのシステムを暫定的に導入していまして、「manaba」は、朝日新聞の記事のデータベースも同時に添付されており、全部読めるようになっています。
この朝日新聞の「聞蔵」というデータベースを使って、前から興味があったのですが、「観光」という言葉がどういうふうに日本の社会で使われてきたかについて調べてみました。
多くの公文書や書籍で出ている「観光」というのは、かつてJAPAN NOWのこの場で、易経の観光という意味は、インバウンドではなくて、アウトバウンドで観光、国の光を観に行くというので具体的には使われていますということを論証して、国語辞典やあれやこれやから引っ張り出して、100パーセントそれが正しいのだろうかというようなことを説明させていただいたことがあります。
では日本で、どうしてインバウンドの意味も入ってきたかということについて、その後大変興味を持ったのですが、これは巷で使う言葉ですから、どういうふうに使われてきたかを朝日新聞の記事で調べてみました。
「観光」「ツーリズム」「ツーリスト」という用語
朝日新聞はかって大阪朝日と東京朝日とがありましたが、「観光」という言葉をどういうふうに使ってきたのでしょうか。
結論から言いますと、戦前は、「観光」はおおむね国際観光の意味で使っていました。元々は、「観光」という言葉は、今のような意味ではなく、固有名詞で使われてはいましたが、今で言う「観光」という言葉は、国際観光で始まったということが朝日新聞の記事で分かります。
朝日新聞がそうですから、多分他のメディアもそうだろうと思います。それが戦後、国内観光の意味が徐々に入りだしたということも、聞蔵というデータベースを使って証明をしたいと思います。
「ツーリズム」という言葉は、平成の時代になってから使われ始めました。朝日新聞をよく見ると、ツーリズムという言葉は昭和時代には5回しか出てこないのです。どうも、役所が「ソーシャルツーリズム」という言葉を使ったときに使い始めたようです。
今や、「観光」は定義が曖昧で、「ツーリズム」でないといけないというようなことを教科書にまで書いてあるのですが、やはりそれはきちんと調べて書くべきではないかと思います。
一方、「ツーリスト」という言葉は、天下の朝日新聞はずっと昔から使っています。
役所も「ジャパンツーリストビユーロー」というものがありまして、どうして「ジャパンツーリストビユーロー」なのかと言うと、「ツーリスト」の訳しようがなかったのでしょう。
ジャパン遊覧ビユーローと言うと、やはり少し響きも違うでしょうし、役所も国際観光局に制限されているのですが、「Board of Tourist Industry」なのです。要は、訳しようがないからツーリストと入れたというのも朝日新聞が教えてくれました。
朝日新聞の「聞蔵」という検索システムは、1879年に大阪朝日が出来てから昭和64年まで、89年間の記事が入っています。平成になってからの記事は別の形で入っています。聞蔵で調べたときに、年代別に見ると、「ビユーロー」という言葉はずっと昔からあり、意味も変わらなくあって、適当な頻度で使われています。「観光」は、朝日ができた頃は、そんなに使われていません。1930年に国際観光局が、鉄道省にできた翌年から爆発的に「観光」という言葉が増えました。今でもそういう傾向があるのですが、役所が言葉を作るとメディアもそれをたくさん使います。「ツーリズム」というのも、ややそれに近いところがあります。
用語「観光」の使用例― 軍人の視察、非軍人に拡大
1946年からは、圧倒的に観光という言葉が多くなりますが、1880年の大阪朝日の朝刊、まさに朝日新聞が最初に「観光」という字を使った記事「観光丸」、また「観光社」、「観光寺」、「観光堂」と、全部おめでたい意味の固有名詞で使われていたのがありますが、固有名詞以外で最初に出たのが1893年の「駐馬観光」です。馬を駐めて光を観る「駐馬」です。日露戦争の前の話ですけれど、イルクーツクの近くに視察に行った軍人さんが、人口4万のロシアの素晴らしい文化を見ていると、ついでに敵情視察したときているわけですけれど、そういう意味で使っています。
それから、軍人の視察から軍人以外に広まったのです。1899年9月に東宮殿下の記事が出てきますが、皇太子殿下が観光に行きます・・・と。その「観光」の意味は、「海外に視察に行く」という意味で使っているわけです。次に皇族から一般の人々に広がっていきます。言葉の発達の仕方というのは一般的に、特殊な偉い人が使って、だんだん下々に入っていって陳腐化していきます。そのうちマイナスのイメージまで下がるというのが言葉の運命です。「観光」も今は少しプラスの意味になっていますが、20年ぐらい前は「何だ、観光か」というようなところまでいったわけです。
結論ですが、戦前においては世間では「観光」はおおむね「国際観光」を指します。これは、天下の朝日新聞が記事では証明してくれています。
用語「ツーリスト」の使用例-1913年から登場
「ツーリスト」は、聞蔵で見ますと、例の「ツーリストビユーロー」というのが今の国際観光振興会なり、JATAなり、JTBなり、渾然一体となった時代のジャパンツーリストビユーローです。訳しようがなかったのだろうと思うのです。記事にある「旅客奨励會支部設置」というのは、多分最初に日本語として考えていたのでしょうが、これもよく分からないので、「日本ツーリストビユーロー」という言葉で紹介されています。
用語「ツーリズム」の使用例-昭和末期迄では5件
「ツーリズム」というのは、昭和末期までで5件しか検索されませんでした。しかも、海外旅行が大半です。つまりツーリズム、観光というのは、国際だという戦前の基本があって、戦後もツーリズムは国際に引っ張られているのです。朝日新聞を見ればそういう判断が出来ます。ですから、いわんや読売や毎日や何とかも全部そうだろうと思います。ウィキペディアのネットでは海外の情報が入ってきますから、ツーリズムやツーリストが海外でいつ頃から使われているかということで見ましたら、「ツーリスト」については1772年ですが、「ツーリズム」は1811年と出ていますから、そんなに古い言葉ではなく、日本でも、それほど遅れているということではないということです。
法令用語「観光」誕生
1940年の東京オリンピックを誘致して、実際には実施できません(返上)でしたが、それに向けて朝日新聞がいろいろな観光の報道をしています。それをご紹介しながら観光という意味についてお話したいと思います。
まず「法令用語」です。1930年に国際観光局官制で初めて法令用語として「観光」という言葉ができました。当時使用された「観光」と言う言葉は、今日言うところの「国際観光」であり、当時としては「観光」で良かったのですが、江木翼(たすく)という当時の鉄道大臣が「国際観光」という言葉に非常にこだわられたと聞いています。この人は、鉄道大臣なのですが、閣内序列で言うと3番目ぐらいに偉い人です。非常に発言力のある人で、将来偉くなるだろうと言われていたのですが、鉄道省の中で、この観光局を作るにあたってだいぶ苦労をされて寿命を縮めたと言われています。(新井尭爾初代国際観光庁長官談)。
日本語で「国際観光局」、英語で「Board of Tourist Industry」、お気付きのように英文ではインターナショナルが入っていません。要するに「観光」というのはインターナショナルだというのが当たり前だったので、事務方が作った言葉は「インターナショナル」を入れなかったのです。
1930年でいうと、朝鮮併合、それから台湾も日本になっていましたから、その地における法令は別の法律になりますが、観光という言葉が法令用語としてありましたが、今の台湾、韓国、北朝鮮でも、観光という言葉を使っています。
観光が何故鉄道省所管だったのか?
なぜ鉄道省所管だったかというと、外貨獲得のためです。観光、易経の説明のときにも説明したのですが、平和産業だとか何とか全く嘘で、国の光を示すと、ここで言葉が逆転したのですが、満州を含めて日本の文化を世界に知らせしめるという意味に変えているわけです。国際観光局を作るときには、それで外貨獲得、当時は国際貸借改善という言葉を作りました。それで作ること自体は大賛成なのですが、どこの役所でやるのとなったら、みんな横を向くわけです。鉄道省も横を向きました。大蔵省はお金を出さないのですから・・・。結局民政党の大物大臣である江木さんが最後には、「じゃあ俺のところで引き受けるか」と。そういう立場の人だから、鉄道省が引き受けました。しかも鉄道省は当時の役所の中で唯一の黒字の会計だったのです。だから、黒字の会計で引き受ければいいのではないかというので引き受けたのですが、今度は鉄道省の役人が怒りまくったわけです。なぜかと言うと、どうしてか。当時、公務員給与カット1割というのをやっていたのです。ロンドン海軍軍縮条約の時代ですから、公務員の給与カット、軍人はみんな怒って、結局それが5・15事件になり、2・26事件になっていったのです。
鉄道省の役人は、現場の職員がたくさんいて、自分たち幹部は我慢するけれど、現場の職員の給与をカットしろと言いながら、国際観光の当時でいう遊びの人を呼ぶようなものに貴重な金を使うのかと、こういう話になったのです。次官を除いたあとの局長以下全部辞表を出して、取りまとめて、それでストライキを打つ覚悟でやったわけです。ところが戦前の1930年頃というのは、何かよく知らないと暗黒時代どうのと言うのですが、極めて民主的な時代で、女性参政権も当時衆議院は通っていますし、それから農民運動もさかんでしたし、ストライキみたいなものも別に赤だとか言われずに、鉄道省の高級官僚が全然違和感なくトップダウンでやるわけですから。民政党や政友会が、二大政党がおたがいに足を引っ張りだして、後で統帥権干犯みたいな政局ばかりやっているあんなやつらのために何で鉄道省が金を出さなければいけないのだというのが、どうも根底にあったようです。鉄道省の記者クラブにいた毎日新聞の記者が、そういうことを本に書いています。
鉄道省の国際観光局の命名理由
国際観光局の命名理由は、国の光を観ると、つまりどこかの国の文化を見に行って、その国の国情を見て勉強をしようという意味で易経は書いているのだけれども、どうもそれでは面白くないと。つまり、新井局長は、「外国人の巾着を狙うようなことは、はなはだ面白くない」と、座談会で言っています。それから「物乞い」だとか。何となく分かるのですけれど、外国人を呼んできて金儲けしましょうというのを、官吏になって国を動かそうなんて思って入ってきたわしらがやることかと、堂々とは言えないのでしょうが、10年後の座談会で、おっしゃっています。そういうことが、日本観光協会の冊子に出ており、面白いなと思って読んだ記憶があるのです。
これは、観光の語源意識におおいに影響をしています。満州国を日本帝国の文化を外国に見せるんだというふうにひっくり返して「観光」という言葉を使っています。
それからもう一つ、役人流に言いますと、当時はまず海軍軍縮条約で減税、軍備縮小するわけですし、それからもう一つは農村の失業問題です。今流に言うと、アベノミックスをやるよと言っていたのです。それからもう一つ、実行予算。国が何か新しい政策をやりますよと予算を打ちます。そのときに大蔵省、財務省からお金を取ってきて新規政策でボーンと打つのなら、各省みんなやりたいです。実行予算でやっているのです。実行予算というのはどういう意味かと言いますと、お金がもらえないのです。鉄道省などは事業会計ですから、大きな予算を持っている中で、自分のお金で自由にできる面があるわけです。事業ですから。その中でやりますよということだから、何の得もないと。むしろ職員の給料を1割カットしろと言われているわけですから、とんでもないと。組合があれば、国労や動労がある時代なら、そんなことをやっていたら大変なことになるわけですから、戦前でも同じだったのです。
それで、それをとにかく抑えるのに江木大臣が大変苦労をされて寿命を縮めたというふうに本には書いてあります。これは真偽の程は分かりませんけれども、大変なことであったのは確かです。これは朝日新聞にも書いてあります。「官僚の反乱」というふうに、鉄道の2・26事件と。
当時もあった景観論
「富士山を隠すな ― 美観を汚す電線を撤去せよ」(1930年5月15日)という記事があります。御殿場線から富士山を見ると、よく富士山が見えるのですが、観光の面では電信柱と鉄道用電線がいっぱいあって景観を損ねるから何とかしろと静岡県知事が言っているのです。そうすると権限を持っている鉄道省の電化課長、技術の人だと思うのですが、「金が掛かるからできるわけがない。富士山側に張ってある線を海側のほうに張り出すぐらいの話を言っているわけです。そうすると、国際観光局の新井局長が、賛成しているのです。「知事の言うとおりだ。やろうじゃないか」と言って。今でもよくありますよね。役所の中で立場が違うと課長同士で喧嘩をしたり、局長同士で喧嘩をしたり。役所が違えばさらに喧嘩をしたり。ですから戦前の中央官庁でも似ているし、鉄道という巨大な組織の中で、かたや局長さんで、かたや課長さんだけれど立場が違って、要するに内部不調整なのです。だけれど新聞は喜んで書くのです。これが朝日新聞の記事「富士山を隠すな!」です。
ホテル融資
「名勝や大都市に理想的ホテル建設」(1930年5月10日)という記事ですが、1940年の東京オリンピックに向けて鉄道省が外国人を呼んでホテルを整備しようということで、「大都市に理想的なホテルの建設、国際観光局の大きな試みに、大蔵省も低資融資」という記事が出ています。
外人誘致策―海水浴場とスキー場設置
1931年4月16日の記事ですが、「コンテスト行政」というのは私が作った言葉なのですが、経済産業省が一番それが激しいところですが、何やかんやいろいろと地域をおだてて競わせる、そういう手法は当時もやっています。当時は材料が今と違って、海水浴場だとか、そういうことで煽り立てたわけです。それからスキー場です。
競犬計画
1931年4月17日の記事ですが、これに対して「結局流産かー珍案・競犬場、観光局は乗り気だが、うんといはぬ内務省」(1931年4月21日)という記事があります。
今はカジノ法案IR法で世間が騒いでいますが、当時、傑作なのは競犬場です。うさぎを先に走らせて、そのうさぎを追いかける犬を賭けにして、川崎の大きな土地があるのでやろうという計画、観光局は大乗り気と。そうしたら当時の内務省、内務省は権限がありますから、射幸心を煽ると、そんなことできるかとか言って、にべもなくはねつけるのです。
今のIR法も自民党の総務会で外国人に限定するようなことで収めるようなことが記事になっていましたが、あれは非常にいいやり方です。先進国日本が、外国人だけに開放するような博打場を作ったら世間の恥ですし、いきなりやめると言うと賛成者に怒られますから。だから外国人に限定と。そうすると議論が起きるではないですか。私の勘で言えば、外国人の専用、それが途上国がやるのならそれは分かりますが、先進国の日本が外国人専用の博打場を金を掛けてやるのかとなるに決まっています。多分廃案にするためではないかと思います。競犬場は、当時、記者さんも珍案だと思ったのです。そうしたら新井局長が「許可してもよいと思ふが」と、未練がましく書いているわけです。
闘犬復活運動ということで、「グロ好みの都会人相手に競技場の設立計画」(1932年6月2日)という記事もあります。今でも闘犬はあります。東京都は動物愛護条例で闘犬はできませんが、土佐はできます。
国立公園候補地に官官接待
国立公園候補地に官官接待ということで、「大名行列視察に内務省憤慨」(1931年7月12日)という記事があります。当時は国立公園法ができたときです。今は自然公園法と言いますが、国立公園法と国宝保存法、この法律が1929年と1931年に出来ました。これは外貨獲得のためにです。それで国有、国立公園誘致というので、北海道がわしのところもやってくれと言うので、新井局長を含めて東京の文化人を呼んで、見せろと。それに北海道庁の役人も参加しろということになったら、内務省がそれは大名旅行でどうのこうのと言うのでとめたのです。
今でも、一つ間違えると大名旅行といわれるようなことがありますが、戦前も今もあの1930年代の時代というのは、今のわれわれとそれほどずれていないということの証明として取り上げました。
真の日本精神の宣撫
映画会社と提携し、真の日本精神の宣撫(1933年1月12日)。ラジオが始まってメディアとしても観光が全面に使われるようになりました。
オリンピック東京(戦前)開催
1935年東京オリンピックがいよいよ決定しました。イタリアと張り合って、ムッソリーニがローマでやりたいと誘致していたのですが、ヒットラーが応援してくれて日本に譲ってくれたとか、だから戦後東京オリンピックの前にローマオリンピックがあったという話もあります。当時も5年ぐらい前に決まり、拍車が掛かってホテルを作ろう、それからドライブウェイも、今の箱根やああいうものは、全部、戦前のオリンピック決定を契機に整備のスタートが始まったのです。それから雲仙や天草といった国際観光ルートあたりも、国際観光ホテルというのができているのです。
全国に観光協会が設置400を超える
1935年5月30日の記事ですが、私がしばらくお世話になった日本観光協会も、実はこのときにできたわけです。400近くある地方の観光局。これからは観光が大事だというものですから、みんな田舎の人はそうだそうだと言って作るわけです。何となく今も似ているのですが、だけれど中央の観光団体がないではないか、では作ろうというので、日本観光協会みたいなものを作るのですが、その時、えさを撒いているのです。えさは鉄道省の補助金と、もう一つ、こちらははるかに大事なのですが、無料パスです。
それで国鉄や運輸省と記者クラブの人は、乗り放題の無料パスをもらえるのが大変役得であったと思います。そういうものというのは、日本観光協会ができたときに始まったと書いてあります。全国の観光協会の幹部にも、当時でいう2等車の無賃乗車証を出しました。これを止めるのに、国鉄が民営化するまで続いたわけですから、やはり1回やるとやめるのが大変だなという証拠です。
観光学科の設置
1935年11月8日の記事ですが、今は日本の大学には観光云々という学部、学科が50は超えるぐらいあります。学校経営者も、これからは観光だと総理大臣が言うものですから、言い方は少しあれですけれども、信用をして作ったのです。しかし、学生は減っていくし、観光はそれほど就職先があったのかなど、いろいろな問題が出てきていますが、当時は大学生そのものが、今と全然数も違いますから、観光学科というものはありませんでしたけれども、帝国大学でも観光事業を科学的に研究すべきということで、京都帝国大学に観光講座を設置、早稲田大学観光事業研究会も国際観光局長の特別講義を聞く、慶應大学が旅行倶楽部から脱皮を目指す、それから商大(今の一橋)も観光の研究を始めようと、新井局長も応援に行くということが始まったと出ています。
観光収入1億円突破
国際観光収入も5,000万円だったのが、1億円を突破(1936年2月27日)した記事、だんだん外国人が増えだした効果が出てきました。
中央観光地連盟の会長は鉄道大臣で、今ならお金を取られますが、無料で観光ポスターを貼ってくれるという特典がありました。
オリンピックと大ホテル建設
オリンピックで帝国ホテルが、部屋が足りなくなるので、大倉男爵が部屋を増やすよと、鉄道省も鉄道省としてホテルを作ろうという計画を持っていたものですから、オリンピックが終わった後の反動減、それは維持ができないというので鉄道省がやめたという記事が出ています(1936年5月27日)。面白いのは、ライトさんが作った帝国ホテルの増築案に美術批評家協会が反対したのです(1937年1月20日)。今の国立競技場に建築家が反対しているのとやはり似たようなことが当時も起きています。
名古屋観光ホテル開業(1936年12月16日)、帝国ホテルから約30人の従業員派遣と出ています。
それから鉄道省のホテルは役人臭くてどうのというのがあります(1937年4月5日)。
オリンピックへの期待、外貨収入倍増2億円
朝日新聞がオリンピックに1億円寄付をすると出ています(1936年12月12日)。これは当時の野球はアマチュア野球が全盛の時代ですから、大学野球、中等学校野球、これの全盛時代です。まだ読売巨人軍なんかはなくてその次の年にできたのです。ジャイアンツ読売新聞というあのパターンは、当時はなかったのです。天下の朝日とアマチュア野球で、その興行収入が大変なものだったのでしょうから、1億ぐらい簡単に出してくれたという記事があります。それからオリンピックに向けて、日本郵船もみんな協力をして、運賃安くするという記事(1936年8月5日)があります。
国を挙げて国の光を見せようというので、宣撫工作を、国の光を見せるのだとそれでローマに観光出張所を作るなど、全世界に張り巡らしているわけです(1938年3月28日)。
若干、鉄道省の不満は、財務省、大蔵省が出してくれる金が少ない。自前のものが多い、こういう記事もよく出ています。
それで、満州国。日満支観光という言葉で国の光、日本だけではなくて、そういうものを見せる(1938年3月3日)。だんだん言葉も、事変下の真の日本を紹介すると、そういう言葉に変わってきています。
1940年前後の観光
ご承知のように1941年の12月に真珠湾攻撃があったわけであります。一般国民はほとんど知りませんでした。私の親父も陸軍の職業軍人で、士官学校を出て中国に行っていたのです。戦争が始まったときにどう思ったの?と聞いたことがあるのですが、何でアメリカなんかと戦争するのかなと一瞬思ったと。ですから、そういう立場の人間でもアメリカと戦争をするということをあまり認識していなくて、海軍とごく一部の人が思っていた動きだと、これは歴史ですからいろいろな本が出ていますが、そういう面もあるということで、私は観光の専門家として一応見ているのですが、1940年前後、ナショナリズムが盛り上がってラジオが普及してきました。観光の最盛期というのは戦争が始まってから起きています。1942年に満州ブームで日本人がみんな見に、外国人も今の戦争と違いますから、満州ができておもしろいな、行ってみよう。日本が支配しているから安全だということで、見に行っているのです。
それから国内観光も、お伊勢さん参りを中心に修学旅行等で伊勢に観光に行くわけです。景気も良くなっているのです。今でいう公共事業をおおいにやったようなものです。
戦争を始めれば、国内でやっていませんから、消費というか、公共事業はどんどん増えているので景気は良くなり、軍が発注してくれますから、日本郵船でもどこでも、売り上げが増えていく、そういう時代でした。戦局が悪化したのは、1944年以降ですが、1942年頃にはサイパン陥落や何かあったので、分かっていればそんなばかなことしなかったのですが、あれは全部世間に出ませんでしたから、直接日本に空襲が起きるようになって一般国民も分かりだしたというのが1944年です。観光的に言うと、1942年がピークです。300万人亡くなった日本人の9割は、この1944年以降なのです。だから、1942年ぐらいにやめておけば、30万人ぐらいの要するに戦闘要員以外は亡くなられなかったのです。
それから観光とスパイの防諜の話も記事を読むといろいろ出てくるのです。1940年7月11日の夕刊に「観光局黒星」と出ています。海外宣伝用のパンフレット、軍機保護法に抵触するというので、全部印刷をやり直しと命じられているのです。軍機保護法で指定されたある施設を観光のパンフレットに印刷してしまってばら撒こうとしたわけです。そうしたら、これは軍機保護法で違反だから駄目だと。
さすがに1943年ぐらいからは記事がほとんどありません。1942年ぐらいまではあるのですけれど、スパイの話ぐらいです。もちろん、戦争が負ける頃もありませんし、朝日新聞も書いていません。
戦後、国内「観光」の誕生
観光という言葉がいきなり戦後紙面に出て来るのですが、まず1945年9月1日に「観光十和田湖の復活」という記事があります。進駐軍が入ってきて、1946年6月11日に「運輸省に観光課復活」と出ています。これはもちろん、外国人を呼んでくるための組織です。正確に言うと、復活したのではありません。国際観光局がなくなったわけではないのです。国際観光局という名前を使わないで、国際観光をやるセクションは残っていたのです。
外国人が来るというのも、まだ戦後すぐですから、外国人といってもほとんどが進駐軍です。進駐軍をどうおもてなしするかという意味の訪日外客という言葉で、1946年9月に「遊覧観光自動車事業について」と通達が陸運監理局長から出ているのですが、これも駐留軍の将兵向けの観光バスだったのです。だから国内の観光バスなのですが、乗るのは駐留軍ですから、国際観光なのです。
それが、だんだんこの大義名分の外国人の観光から実質日本人に移っていくのです。つまり、経済復興していきましたから、駐留軍と同じようなぜいたくを日本人のお金持ちがやり始めるわけです。そうすると、観光バスが外国人用にあるのだけれども、それしかないからそれを使うわけです。そうすると、役所は外国人用のために免許を出しているのに、日本人が使うのかと言いながらも、商売をしている人たちの邪魔はできませんから、だんだん、それが主流になっていく、主流になってしまったら、観光という言葉も日本人向けの国内観光ということに移っていきました。実態としては朝日新聞の記事を追いかける限り、そういうふうに思えます。
1949年3月17日の「青鉛筆」欄に、国内豪華旅行に観光という言葉を初めて使ったケースです。読むと面白いので少し読みます。「こんな農村観光団もある。岩手旅行社で日本一周……を募集したら、『あに、けちけちすることはねえぇす』と旅費一万二千円を投げだして申し込んだお百姓さん三百九十六人。七台連結の特別列車を仕立て、一人あたり一斗の米を持ち込み、酒数十本に、岩手医大の医者に看護婦二人。ペニシリンまで用意してはべり、車中では八名の芸人がスッチャカスッチャカとご機嫌をとり結んだ上、ガリ版の車中新聞も発行。盛岡を後に、日光、善光寺、永平寺、琴平、出雲大社、高野山、鎌倉、東京、成田という三千キロコースを上り下りの・・・」と。今ではこれ大名旅行ですね(1949年3月17日)。これが、私が朝日新聞の検索で見た限り、国内観光で堂々と使った最初の記事です。だけれど外国人はもちろん入っていますから、併用して使っているということです。
もうだんだん見境がなくなったというよりも、当たり前のごとく、観光は国内観光になったのはこの記事です。観光バスに農村のご婦人も乗っていて、事故に遭いますよ。誰も違和感なく当たり前のように読んでいます。
1952年2月7日記事「名乗りあげる新温泉」。観光客が50億・・・。この観光客は日本人です。1952年、昭和27年ですから、講和条約を発効する年です。だからもうアメリカの世話になることはないと言って、日本が施政権を復活する頃というのは、経済的には完璧になっていたのです。時代がそういう時代であります。
最後に、1952年2月26日の朝日新聞の社説ですが、これは朝日新聞の偉い人がこれを書いているわけですが、そうすると、やはり戦前が長い人ですから、観光というのは国際観光であるという前提で書かれています。現場の第一線で書いている社会部の記者は、もう戦後の意識ですから、国内観光がどうだと書いています。このあたりがターニングポイントで、今ではもう両方の意味で「観光」という言葉が使われているというふうに思います。
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