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『MMT現代貨幣理論入門』

公開日: : 最終更新日:2023/05/20 出版・講義資料

現代貨幣理論( Modern Monetary Theory, Modern Money Theory、略称:MMT)に関してウィキペディアでは、「ケインズ経済学・ポストケインズ派経済学の流れを汲むマクロ経済学理論の一つである。変動相場制で自国通貨を有している国家の政府は通貨発行で支出可能なため、税収や自国通貨建ての政府債務ではなく、主にインフレ率に基づく財政規律が必要であるという主張をしている。MMTはその名の通り現代の貨幣についての理論が支柱となっている。管理通貨制度に伴う政府の通貨発行権に焦点を当て、政府が法定通貨での納税義務を国民や企業に課すことによって、法定通貨に納税手段として基盤的な価値が付与されて流通するという貨幣国定説や表券主義が基軸である。さらに主権通貨国の財政政策について、完全雇用の達成・格差の是正・適正なインフレ率の維持等、財政の均衡ではなく経済の均衡を目的として実行すべきであると主張している。そしてインフレーションリスクに対しては、ビルト・イン・スタビライザーを中心に、政府の支出抑制および増税で対処できるとしている。MMTは新古典派経済学の枠組みで構築されている主流派のマクロ経済学と対立しているため、政策的効果やリスクについては論争となっており、活発な議論がなされている」とされているが、これだけでは、素人にはわからない。いつものように、AMAZONの書評を読んでみる。

AMAZON書評➀

現代貨幣理論を本当に理解するには、複式簿記の原理と日銀当座預金の性格と機能を十分に理解しておく必要がある。
 現代貨幣理論とは、結局のところ、国家全体の資金の流れと蓄積を複式簿記で眺めた時に得られる客観的真実である。そこには曖昧性は全く存在しない。お金は有体物の紙幣のイメージが強すぎて、紙幣による支払いで資金の流れを見てしまうことから、お金に対する考え方は大きな誤解を生じてきた。例えば、銀行に預金する場合に、紙幣を銀行窓口に持ち込んで預金通帳に金額を記帳してもらい、その持ち込んだ紙幣は別の人に貸し出されると考えてしまう。また、売上や給与所得は自分の銀行口座に他人の銀行口座から振り込まれる。その時に振り込まれた通貨は、どこで誰が発生させたものかを考えてこなかった。まるで労働の対価として紙幣や預金通貨が発生したかのように考えてしまう。
誰かが通貨を生成させている。 まず、売上や所得として振り込まれた預金通貨は、何時、誰が発生させたものか。第1の発生機構は銀行の貸出であり、第2の発生機構は政府の国債発行による。これ以外には預金通貨を発行することはできない。

 平成30年末における預金取扱金融機関(以下、単に「銀行」という)における全円預金(預金通貨)の総額は1437兆円である。この預金通貨の内783兆円は銀行の貸出により発生し、651兆円は政府による国債発行とそれにより得た資金の政府支出により発生している。

 銀行は783兆円の借受人の借用証書を手元において、借受人の銀行預金通帳に783兆円と記載するだけで預金通貨を生成している。783兆円のお金をどこからか持ってきて、貸出している訳ではない。銀行は無から有の預金通貨を生じさせている。すなわち、貸付を資産とし、預金を負債とする仕分けが行われている。銀行預金は銀行にとっては負債である。何故ならば、銀行は借受人が望むなら紙幣を払い出す責務(債務)がある。預金通貨の発生とは、債権(貸付)と債務(預金)とを対で生成する行為に過ぎない。

  借受人が783兆円の借金を銀行に返済すると、預金通貨783兆円が瞬時に消滅して、全体として1437兆円あった預金通貨は654兆円に減少する。783兆円の有形の通貨が銀行に戻されるのではない。貸出しは無から有を生じさせた行為(債権と債務の契約行為)であるので、返済されると銀行預金の数値が消され借用証書が戻されて、無に戻る。通貨は金や銀のように、それだけで価値のある物であると長年刷り込まれてきたので、お金が生れたり消えたりすることは、理解し難いかも知れないが、これは真実である。

 借金が返済されて預金通貨が減少することは経済縮退になり,借金が増加して預金通貨が増加することは経済拡大につながる。したがって、経済活動において借金は悪ではなく必然である。誰かが借金をし続けていないと経済は回らないという、ただそれだけのことである

 預金通貨の第2の発生機構は、中央政府による国債発行である。平成30年末における日銀の保有国債は464兆円、銀行の保有国債は186兆円である。残りの国債約460兆円は生命保険会社や証券会社等の銀行以外の部門(以下、「非銀行」)が保有している。日銀と銀行とが保有する国債総額651兆円の大部分(一部、非銀行からの日銀の買取がある)は、中央政府が現在までに銀行に売った国債である。銀行が政府から国債を購入する原資は、銀行にとって資産の日銀当座預金であって、負債である銀行預金ではない。当然ながら銀行にとっては負債の銀行預金を貸し出すことはできない。

 日銀当座預金とは、銀行が日銀に持つ預金口座の預金である。国民が銀行に対して持つ銀行預金と同じ関係において、銀行が日銀に対して持つ預金が日銀当座預金である。中央政府も日銀に日銀当座預金(銀行の日銀当座預金と区別するために政府預金という)を有している。

 例えば、日銀当座預金が10兆円あったとする。日銀当座預金残高は、実際には平成6年までは6兆円以下、平成19年で12兆円である。銀行が中央政府発行の国債を5兆円購入する場合には、日銀の操作により日銀当座預金の5兆円が政府預金に振り替えられ、5兆円の国債は銀行の手元に移転される。銀行は5兆円の日銀当座預金資産を失う代わりに5兆円の国債資産を得ることになる。中央政府は得た5兆円を1年かけて、公共事業などの政府支出として使う。すなわち、5兆円は事業者の銀行預金に振り込まれる(さらに従業員等の預金に流れる)。すなわち、5兆円の預金通貨が新規に生成されたことになる。このとき同時に、政府預金の5兆円はこの銀行の日銀当座預金に振り替えられる。これでこの銀行は日銀当座預金資産が5兆円増加し、預金負債が5兆円増加して資産と負債とが同額となりバランスする。結局、日銀当座預金は銀行が国債を購入する前の額の10兆円に戻る。これらの事実を認識することは、通貨や経済を認識する上において極めて重要である。

 銀行による政府発行の国債の買取りを毎年繰り返すことで、日銀当座預金は10兆円のままで減少することなく、銀行は651兆円の国債を購入することができ、中央政府は通算で651兆円の政府預金を得ることができる。651兆円は公共事業などに政府支出されて、国民の預金通貨が651兆円新規に生成されることになる。

 銀行の保有国債は現在186兆円であるので、日銀が464兆円分の国債を銀行から今までに購入してきたことになる。日銀の国債の購入においては、日銀は464兆円の国債資産を得て日銀にとって負債である日銀当座預金を464兆円だけ増加させている。これにより、日銀は資産と負債とを同額だけ増加させ、資産と負債とをバランスさせている。重要なことは日銀が国債を銀行から購入して日銀当座預金が増加しても銀行預金は増加しない。すなわち、銀行による国債の買取により預金通貨は既に発生しているので、日銀の国債買取によっては預金通貨は発生しない。

 非銀行の保有する国債460兆円は預金通貨を生成していない。何故ならば、日銀当座預金を有さない生命保険会社等が国債を政府から購入しても、国債購入費だけ預金通貨が減少し、政府支出により預金通貨は元の額に戻されるだけであるので、預金通貨は増加しない。日銀当座預金を有さない非銀行の保有する国債を銀行又は日銀が購入するとき、預金通貨が初めて新規に生成される。銀行が購入する時に銀行では、国債は資産に非銀行の預金が負債に仕分けされるので、非銀行が保有していた国債は、この時に初めて預金通貨を発生したことになる。日銀が購入する時には、非銀行の口座を有する銀行の日銀当座預金が買取国債の額の分だけ増加し、非銀行の預金が同額だけ増加するので、預金通貨が新たに生成されることになる。
 すなわち、銀行が過去に保有していた国債と現在保有している国債は、既に預金通貨を生成した国債であり、非銀行が保有する国債は預金通貨を生成する能力を有した国債ということになる。

 国民が預金を下ろして紙幣を手にする場合には、銀行は負債である預金を減少させると共に資産である日銀当座預金を下ろして日銀から紙幣を手にして、この紙幣を預金者に渡している。日銀当座預金のうち109兆円が現金として市中に出回っている。すなわち、日銀当座預金の全額は紙幣に変換できる。言い換えれば、中央政府が発行してきた国債は、最終的に日銀が買い取ることで日銀当座預金を増加させることができる。その日銀当座預金は全て紙幣に変換できる。ということは中央政府が今までに発行してきた国債の全ては、紙幣に変換できるということである。

 現在の預金通貨と現金とを合わせた通貨1546兆円は、銀行の貸出と中央政府の国債の発行により生成されたものである。銀行は国債を政府から幾ら購入しても日銀当座預金は減少しない。したがって、銀行が中央政府から利付国債を購入する資金が欠乏することは有り得ない。銀行は日銀当座預金で資金を保有するよりは安全な利付き国債を購入したいという動機が存在する。現に国債の応札倍率は額にして4.5倍程度と大きい。また、銀行の民間への預金通貨の融資は貸付により発生させている。したがって、民間の資金需要が拡大しても銀行が政府発行の国債を購入する資金不足に陥ることはありえない(クラウディングアウト論は完全な誤りである)。また、銀行が国債を購入する資金不足に陥ることがない以上、国債の金利の上昇も国債の暴落も有り得ない。現に10年国債はマイナス金利である。

 国債の発行は借金の積み上げではなく、国民の預金という金融資産の積み上げである。しかも中央政府の発行国債は全て紙幣に変換できる。この認識は極めて重要である。労働市場を拡大(需要を拡大)させて社会資本を充実させ、国民の預金を増大させることがどうして財政破綻になるのか。 

 もう一つ重要なことは、中央政府の負債の増加は、それ以外の部門(国民など)の金融資産の増加を意味する。家計(国民)、政府、企業、金融機関、海外などの経済部門における純金融資産(金融資産-金融負債)の総和は零である。この関係を純金融資産定理と私は名付けている。中央政府とそれ以外の非中央政府との2部門に分けると、中央政府の純金融資産+非中央政府の純金融資産=0である。純金融資産の絶対値は家計と中央政府が圧倒的に大きい。したがって、非中央政府は家計と見做すことができる。

 純金融資産定理が成立しているので政府のプライマリーバランスの黒字化は、国民(家計)の収支(所得-支出)の赤字化を意味し、収支の累積が資産・負債であるので、国民の金融資産を減少させることを意味する。すなわち、緊縮財政をとり国債を償還する行為は、国民の金融資産を消滅させる行為である。国民の純金融資産が正値(資産超過)であるためには、いずれかの経済部門の純金融資産が負値(負債超過)でなければ経済循環は成立しない。その重要な役割を中央政府が果たしているというだけのことである。

 重要なことは、全通貨1546兆円は多過ぎるのか否かという問題である。多過ぎなければ、中央政府は国債を発行して必要な政府支出を拡大して、国民の預金を増大させても構わない。通貨が多過ぎるか否かの判断基準は、需要に生産が追いつかずに、極端なインフレ傾向になったか否かである。極端なインフレにならない限り、政府の支出を拡大させても構わないとうのがMMTの結論である。財政破綻など考えられないのであるから、政府はMMTを十分に理解し、国民が安全で豊かな生活が送れるように、将来のGDPの基盤となる社会資本への投資(科学技術・教育投資、安全保障投資、地方活性化投資など)を拡充させて懸命な経済政策を採るべきである。
 日本の将来を考えるならば、一人でも多くの人が本書を読んで、通貨と経済政策についての真実を理解することが望まれる。 

書評②

 これは話にならない。ただし、間違っているからではない
 まず劈頭、貨幣とは政府が発行し国民から税を集める手段であるという定義が出てきて、私はひっくり返ってしまった。もう一度言うが、間違っているからではない。性質によって定義し、それをprincipalとしているからである。現実について語るなら、質ではなく量を定義すべきなのである。これは経済学の知識とは全然別問題だ
 貨幣はもちろん複雑なものだ。私がコンビニで使うお金と銀行から借りるお金は働きとして別物である。もちろん中央銀行が民間に納入するお金も違う。それを一つの定義でくくりたくなるのは理解できる。古典派からの経済学もそれぞれ定義があるのだろう。しかし定義は現象を切り取った意味であってはならない
 例えばエネルギーとは何か。正確に言える人はいない。これを現象面で切り取って、熱を上げるものであるとか、光を生じさせるものであるとか、運動をもたらすものである、などと定義してはならないのだ。エネルギーはそれらのことを関数で結び付けた背後にある「量」で語るべきものである
 貨幣も、複雑な人類社会を動かす「背後にある何か」であって、現象の一面を取って定義するなら経済の全体像はとらえきれなくなるだろう。それは発想の逆転という本書が強調する性質から明らかだ。お金がたまったから大きなものを買おうと思う。これを通常の視点として、車や家を買うためにお金を貯める、残業を増やすとか有利な職を探すということは、因果関係の逆転を想定することになるだろう。しかし前者が一面的であるなら、後者も一面的である
 著者はこんな簡単なことすらわからないのだろうか。最初からこのような具合であるから、まともな検証に値する本ではないと私が判断したからとて責めないでほしい。質で定義する時点で、イデオロギー全開であると白状するようなものだ

 例えばマルクスは等価交換を持ち出す。これは正しくはないのだが、量で定義する出発点は経済を語るにあたってまずまずだと私は思う。彼の問題点は等価交換を絶対的な真理とするために搾取という概念を作ったことだ(あるいはこれこそ逆なのか?)。商品は大抵の場合それにかけた労働の総計にはならない、ということを現実的に見据えておくことが必要だった。不要なイデオロギーが彼の思考から柔軟さを奪った
 本書も、あるいは善意からなのかもしれないが、イデオロギー色が強すぎる。「経済の原理がこんな風であったなら、国が正確に管理できるのになあ」という感じのもので、何やら共産主義の失敗を想起させるではないか。たとえば擁護者の良く使うロジックとして、誰かの支出は誰かの収入である、のような、有無を言わせぬ等価理論がある。しかし支出と収入が働きとして別である以上、微妙に等価ではない。私は残念ながらそれを突き詰めて計算するだけの資料も根性も能力もないが、そして誰かがそれを理論化できるかどうかわからないが、現実経済の微妙さはこういうところからほころぶ。貨幣に視点を置いて単純にイコールで結び付けるような理解では、到底そのことは見えてこないだろう
 そもそも財政均衡主義が間違っていると言うのに、新理論は必要ない。古典派でもリフレ派でも、同様の論建は可能だ。この本に新しい知見はない、と私は思う。貨幣論は成立事情と歴史的な変遷を踏まえた、主流派のいうようなもので十分であり、あとはそれを絶対的な原理とせず場合に応じて補足を加えていくような丁寧さが求められるだけである

 星を一つにするほどではなく、もっと基本的な経済学を学んだあとにこういう斜に構えた見方もあるということを知るにはよいのかもしれない。しかしこれを安易に推す人たちは、実はケインズの一般理論すら理解できていないくせに、誰かの尻馬に乗って、リフレ派は間違った、したがってこれからはMMTである、と調子づいているだけにしか思えないので辛めにつける

書評➂

 最近、何かと盛り上がりをみせているMMT(現代貨幣理論)の基本文献の邦訳がついに出ました。経済の動向を少しでも気にする方々は、是非とも読んでみるべきでしょう。
 本書について特筆すべきは、日本人二名による解説でしょう。巻頭解説が中野剛志さんで、巻末解説が松尾匡さんです。中野さんだけではなく、松尾さんの解説も載っているというのが非常に重要な評価点だと言えるでしょう。なぜなら、二名のMMTへの評価には差異が見られるからです。
 中野さんは、〈通貨としての価値を見出すのは、その紙切れで税金が払えるから〉というMMTの前提を主流派経済学と異なっている点として挙げていて、〈MMTを支持する側にいること〉を表明しています。一方、松尾さんは〈MMT論者ではない〉そうで、MMTの主張する事実命題が異端でなく〈経済学者なら誰でも認める知的常識の類〉だと述べていますが、〈国民は皆もともと納税債務を国家に負っているという前提〉について〈私にはなかなか心情的に受け入れがたい前提〉だと語っています。
 現在の日本への政策提言としては、中野さんも松尾さんも(そして私も)おそらく大きな相違はないでしょうが、MMTという貨幣の理論への評価には違いがあるわけです。率直に述べるなら、私は松尾さんの解説にはほとんど同意できましたが、中野さんの解説には違和感を覚えました。ですから、本書を読んだ私はMMT派にならず、MMTには理論的に問題があると考えているわけです。

 まず「第1章 マクロ会計の基礎」は、細かい論点にこだわらなければ、MMT派に限らず多くの人が共有できる話だと思います。問題は「第2章 自国通貨の発行者による支出」の論理です。
 第2章では、支払手段制定法では〈通貨が受け取られる理由を説明できない〉とされます。なぜなら、〈他人がそれを受け取ることが分かっているから〉というのは、〈受け取られるから受け取られる〉という〈無限後退に陥っている〉からだと言うのです。この説明は〈「間抜け比べ」もしくは「ババ抜き」貨幣理論〉だと辛らつです(苦笑)。
 そこで持ち出されるのが、〈租税の不払いに対して課される罰(刑務所行きもある)を避けるために、納税者は政府の通貨を手に入れる必要がある〉という理屈です。好きなモノを買ったり貯金したりする〈通貨の利用法はすべて二次的なものであり、租税の支払いにおいて自らの通貨を受け取るという政府の意思から派生したもの〉だというのです。つまり、〈国家が租税債務を課し、強制する権限を有していれば、その通貨に対する需要を確保できる〉という論理展開なのです。
 つまりMMTでは、通貨の裏付けを「信頼」や「期待」ではなく、「義務」や「罰の回避」だと主張しているわけです。本書を読んだあなたは、この前提に同意できるでしょうか?
 私は同意できませんでした。MMTでは無限後退を避けるために、いきなり政府による租税という義務を前提として持ち出しているわけです。しかし、それでは通貨を裏付けるために、租税の不払いを見逃さず、適切な罰則を下せる政府をすでに前提してしまっているわけです。そんな政府が、しっかりした通貨の運用をしていないとは考えづらいでしょう。つまりMMTでは、通貨を裏付けるために、通貨がすでにしっかり運用できているような政府を前提においてしまっているのです。
 本書の中の記述からも、この前提のおかしさを指摘できます。まず「第1章」の「【コラム】 会計の恒等式に対する異論」で、二人で構成されている経済の話が出てきます。ここでドル建ての債務証書と債務証書で取引がなされていますが、別に租税は必要とされていません。
 また驚くべきことに、第2章には〈民間の支払いにおいて外貨が使われ、節税や脱税が広がると、人々は政府の通貨をあまり欲しがらないかもしれない〉という説明があるのです。本書内ですでに、租税を前提とする理論が破綻しているように私には見えます。

 私の見解は、通貨の裏づけのためには、支払い手段などの権利と租税などの義務が補完関係になっている必要があるというものです。理論的に述べるなら、義務と権利の無限循環が安定しているから、通貨が通用する、ということです。

 ちなみに、政治学では義務を果たすことで権利が保障されると考えることができます。防衛義務を果たすから、その派生として財産権が保障されるといった場合です。ですから、義務を基礎にして、権利を導くということはありえるでしょう。
 しかし、通貨の場合で、しかも租税義務で、支払いの権利を派生的に論じるということは整合的でなく無理があるということです。

 また、第4章の〈変動為替相場制を採用している限り、政府は通貨安になっても特に対策を講じる必要がない〉という結論にも疑問を持っています。通貨安には政府は何らかの対策を講じるべきときがあると考えるからです。

 さて、重ねて言っておきますが、MMTの理論の妥当性は第2章にかかっていると思われますので、本書を読む方はここの論理に納得できるか注意深く確認しておくことを推奨します。理解しきれていない理論や、納得できない理論に賛同することは、誰のためにもならないと思われるからです。

 

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