敗戦後の心のよりどころ「戦艦大和」と「ゼロ戦」を国民がいつから認識し始めたか? 観光資源を考える
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最終更新日:2019/06/29
観光資源の均一化
大和の存在が初めて国民に広く紹介されたのは、1952年に発刊された吉田満の小説「戦艦大和ノ最期」であり、1953年に同小説を新東宝が映画化した「戦艦大和」である(同小説は長くGHQ の発禁を受けていた経緯を持つ)。
零戦は神立尚紀「祖父たちの零戦」p.389にもあるように、戦時中ほとんど国民に知られていなかった。1939年11月23日の新聞が初出で、採用から4年後である。陸軍は戦闘機に隼等の愛称をつけて宣伝したが、海軍はしなかった。昭和28年「坂井三郎空戦記録」がベストセラーになったから。昭和34年の漫画少年マガジン、少年サンデーによりゼロ戦ブーム
当時の日本の軍用機の名称は採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦の制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、その下2桁の「00」から「零式」とされた 。 「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。このうち「ぜろせん」と読むことについて「戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから『ぜろせん』と読むのは誤り」「“ゼロファイター”の和訳が戦後に一般化した」と言われることがあるが、戦時中の1944年(昭和19年)11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際には「荒鷲[注釈 2] などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されていることから、「れいせん」「ぜろせん」どちらの呼称も誤りではない。
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