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読売新聞、朝日新聞記事に見る字句「ツーリズム」「観光」の用例

公開日: : 最終更新日:2016/11/25 人流 観光 ツーリズム ツーリスト

読売新聞の記事データベース「ヨミダス」及び朝日新聞の記事データベース「聞蔵Ⅱ」を活用して「ツーリスト」「ツーリズム」及び「観光」の用例を分析した。なお、朝日新聞の記事に関しては、2015年3月発行の「帝京平成大学紀要」に掲載予定(掲載後はHPにも掲載予定)であり、ここでは概要にとどめ、広告記事を中心にした。

1 ツーリスト

戦前期の「ツーリスト」の用例については、朝日新聞及び読売新聞においては「ジャパン・ツアリスト・ビューロ」に関するもののみであった。読売新聞では「漫遊外客の為の新ビューロ設立」と題していた。当然「ジャパン・ツーリスト・ビューロ」の広告記事においては「ツーリスト」が使用されていた。なお、現代でも旅行会社名にはツーリストを使用することが一般的である。日本交通公社社員がサイドビジネスとして交通公社の団体旅行の相談受付を行っていた「富士ツーリスト」という会社を馬場勇が引き継ぎ、1948年に日本ツーリストに改称し、1950年に日本ツーリスト株式会社として設立したものである。この日本ツーリストが合併後近畿日本ツーリストになっていった。

2 ツーリズム

読売新聞及び朝日新聞における「ツーリズム」の用例は、新聞発行時(1874年、1879年)から戦前期においては皆無であった。昭和戦後期の用例も、読売新聞においては1962年1月21日朝刊における「ソーシャル・ツーリズム」及び1964年4月10日朝刊における「産業観光(テクニカル・ツーリズム)」の2件だけであり、朝日新聞も戦後昭和期の用例は5件であり、海外旅行が中心であった。読売新聞の平成期における用例においても、2000年までの「ツーリズム」の用例は244件であり「観光」と比較しても極めて少ない。増加するのは21世紀に入ってからであり、2001年から2010年までの用例は2565件、2011年から2016年までの用例1108件となっている。観光研究者が好んで使用する「ツーリズム」は新聞検索によれば、きわめて近年の現象なのである。ちなみに「観光」のヒット数は2011年以降だけでも六万件を超えている。この傾向は朝日新聞においても全く同様であった。

以上のことから字句「ツーリズム」が一般に使用されるようになったのは21世紀にはいり小泉総理が観光を唱え始めてからのことであり、しかも字句「観光」の使用が高まるとともに高まってきたと判断される。

3 朝日新聞「聞蔵Ⅱ」による広告記事における「観光」の用例

1879年から1989年までの記事(縮刷版掲載)で1542件ヒットした。戦後のものがほとんどであるが、戦前のヒット数も119存在した。広告であるから「上野観光堂(社名)」「上村観光(人名)」のように固有名詞に使用されるものもあるが、それ以外は観光団の参加者募集広告が大半である。

用例としては、1907年5月9日東京朝日新聞朝刊に掲載された、博文館発行の博覧会土産の絵葉書ー油絵「日本観光」ーの広告が典型的なものである。日本観光とあるからには日本人よりも外国人向けではないかと思われるが、日本語の広告なので多分中国人又は外人ガイド向けであったのであろう。1909年7月13日東京朝日新聞朝刊にロシア人相手と思われる「競馬観覧兼観光船」広告、1911年2月23日東京朝日新聞朝刊に、帝国ホテルが受け付けるところの関西遊覧都観光団会員募集広告、1915年9月25日東京朝日新聞朝刊に、観光便覧「東京案内」の広告等がある。1916年8月2日東京朝日新聞朝刊に、鉄道省が出した佐渡観光臨時列車の広告が掲載されている(読売新聞にも掲載)。この時期あたりから遊覧的意味でも使用する者が出てきたのかもしれない。1926年7月17日東京朝日新聞朝刊に「強羅温泉 観光旅館」の広告があるがが、観光旅館とは驚いたことに固有名詞で、茶代廃止とうたっているので、外国人及び外国人相手のガイド向けであることがわかる。

なお、『昭和旅行誌』(森正人著 中央公論新社2010年)によれば、鉄道省事務官芳賀宗太郎は日本旅行協会専務理事に就任し雑誌「旅」を通じて団体旅行の在り方を示した。1926年に東京鉄道管理局管内で国鉄が輸送した団体旅行の件数は1万9446件、人数は284万1686人で、大半は学生団体であった。そして一般団体割引が其30年も前から実施されているのに少ない理由を、芳賀は団体旅行は恥ずかしいと感じられているからであるとしている。これに対して森正人は、1927年当時の論議で導かれた結論は、団体旅行とは愉楽の旅ではなく国家の為の国民創出のための旅であるべきだと主張されていたのであると断じている(平時の戦争)。このあたりの論議が「観光」列車と題されるものが極端に少なかった理由の手がかりになるかもしれない。

 

4 読売新聞ヨミダスにおける「観光」の用例

明治大正時代の記事においては、当初は広告における固有名刺(「観光小誌」「観光灯」)の用例のみであるが、1897818日朝刊に初めて普通名詞の用例が登場している。台湾の生蕃人が内地観光のための上京に関するものである。その後、1897年9月7日朝刊の英国海軍次官の日本観光、次いで1998年2月16日朝刊には鉄筆家山田寒山子の支那観光と掲載され、その後は外国人、日本人の外遊に関する記事が数多く敬されるようになっていった。なお、1906年8月27日朝刊に固有名詞であるが、横浜に我が国に来訪する世界万誘客のための「日本観光株式会社」設立の記事が掲載されている。この場合の「観光」は明らかに外客を念頭に使用されている。

字句「観光」の用例が国境を超える日本人、外国人に係るものが多い中、日本人の国内移動に使用する用例を概観してみる。初めてあらわれる記事は、1909519日朝刊の山形県日報社主催による山形県人の北海道観光団(小樽)に関する記事である(朝日新聞も報道している)。その後1909年6月28日朝刊には大坂商船会社の催しに係る瀬戸内海観光団が別府に上陸した記事、1910年9月22日朝刊に秋田県実業観光団の農商務省を訪問した記事、1911年4月27日朝刊に厳島観光団が乗船した東予丸の沈没事故に関する記事、1913年3月12日長崎新聞社主催の参拝団に「長崎観光団」を使用した記事が頻度は多くはないものの掲載されている。1916年8月2日朝刊には佐渡観光臨時列車に関する広告が掲載されている(朝日新聞も掲載)。1917年11月15日朝刊には小笠原島からの観光団に関する記事が掲載されている。なお、団体旅行の数は前掲書『昭和旅行誌』の記述にあるように東京管内だけでも桁違いに多い中でのものであるから、「観光」の用例については更に詳細な分析が必要であろう。

1935年3月30日に現在の伊豆急鉄道の延伸に関し「さながら観光線の絶景」という見出しとともに鉄道省営・川奈大観光ホテルの記事を載せている。1935年5月11日朝刊には箱根観光博覧会開催中の広告記事が掲載されている。なお、読売新聞には毎月箱根温泉の広告記事が掲載されているが、明治大正期には字句「観光」は使用されていなかった。1936年4月20日朝刊の記事「観光日本を満載しており観光祭の花電車」1936年8月11日朝刊に、「全国観光地連盟を日本観光連盟に強化し、各地観光施設に低利融資斡旋を考える」という内容の記事が掲載されている。広告は、特集「○○県の産業と観光」といったスタイルで高頻度に掲載されている。1937年にはオリンピック、万博に対応するため東京市に観光課が設置された。昭和13年版『産業と観光』の広告が日本電波通信社から出されている。1939年3月23日の記事では東京駅と上野駅に設置した案内所が、外人はもとより上京者でもなく、東京住民に利用されていると報道している。建前の国境を超える「観光」が日本人の国内遊覧どころか地域住民にまで活用されていることから、日常と非日常の接近が戦前期においても始まっていたようである。

字句「観光」の戦後の用例として、1945年9月14日「鎌倉を観光都市に」1946年6月11日「運輸省に観光課設置」6月11日「全日本観光連盟 招く外客」6月29日社説「観光日本」の記事があり、いずれも外客誘致に関わるものである。その後も外客誘致が中心であるものの、1947年6月17日朝刊に「最近の地方事情 佐渡、関門にモナコ」という記事が掲載され、必ずしも外客に限定してない内容であった。1948年に入ると広告において「大島を巡る観光団募集 折笠百貨店」という国内観光に関わるものが掲載されている。朝日新聞が国内豪華旅行に観光を使用し始めた時期よりは若干速いようである。

5 字句「観光」用例のまとめ

読売新聞及び朝日新聞の検索結果から判断すると、世の中で一般的に「観光」が使用される場合に、国境を超えるものという常識があったと推測できる。圧倒的に国境を超える用例が多く、日本人の国内移動に関わるものは例外的であるからである。言葉は徐々に変化してゆくから、誤用等から始まり次第に市民権を得てゆくことは十分に考えられる。国内移動についてジョークも交えて「外遊」というニュアンスを持つ「観光」という言葉を使用することは自然であり、むしろそのほうが一般的で、戦後復興期にいきなり日本人の国内行動を含めることとして使用が始まったわけではないであろう。

なお、「国の光りを見る」の「国」概念も時代背景で変化するのではないであろうか。今日的な意味での国民国家の確立は、第一次世界大戦後であると解釈されている。日本にも、台湾、関東州、朝鮮等があり、外地、内地という言葉が存在した。「内外」概念の発生である。満州の扱いは今日では更に微妙である。従って国境概念が確立していない明治初期の一般人に対して「国境」を超える概念として「観光」を使用していたとするのは極めて現代的な姿勢になり、当時は文化の大きく異なる地域を見に行くという意識で使用していたのかもしれない。

国際観光局設置以降の朝日新聞、読売新聞の掲載記事において、国際観光局を見出しでは「観光局」とすることが多い。この影響もあり、逆に、観光とは国境を越える移動に関わるものであるという読者の認識が、形成されていったという仮説も成り立つかもしれない。

「遊覧」どころか「遊」の意味自体も変化しているが、観光に「遊覧」の意味が加わってゆく経緯分析も今後の課題となる。「文化」の用例が文化鍋、文化包丁といったように大衆化してゆく現象に見られるように、観光も大衆化してゆく過程で遊覧のニュアンスが強くなり、最終的には遊覧のニュアンスが主流になったのではないかと推測している(証拠はないが)。遊覧の意味が主流になった時点で、皇太子殿下が海外に観光に出かけると言った明治期のような用例は不謹慎なものと感じられるようになったのではなかろうか。同時に国境を超えるといったニュアンスに限定されることもなくなっていったのではないかと思われる。国際観光局設立時の鉄道省の役人には本音ベースでは「観光」のニュアンスが遊興的と思って受け止めていた節がある。そのため「日本の光りを外国に見せる」と言う意識を強調したように思われるのである。

6 今後の課題

ヨミダス、聞蔵において、日本人の国内移動に「観光」の使用される例が国際に関わるものに比べて圧倒的に少ない理由として、「観光」の意味において日本人の移動に関わるものが含まれていないからであるという仮説をたてているが、それ以外には、当時において日本人の国内移動に関わる観光活動が極めて少なかったからであること、あるいは国際に関わるもののニュースバリューが高く記事になりやりやすかったこと、更には日本人の国内移動は当たり前すぎて記事にしにくかったことが理由として考えられる。定量分析等を用いた科学的な立証が必要であろうが、逆にアプリオリに内外無差別に「観光」が使用されていたという断定も軽々にはできないであろう。いずれにしろ「ツーリスト」「ツーリズム」の日本語化とともに、字句「観光」と字句「遊覧」の意味内容が、日本語としてどの時点から重なり合い、融合し、逆転していったかについての定量的分析が今後の観光学の課題の一つである。

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