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QUORAにみる歴史認識 第二次世界大戦時、なぜ戦況は悪化したのに、(日本は)戦争は辞められなかったのですか?

公開日: : 最終更新日:2020/12/01 歴史認識

第二次世界大戦時、なぜ戦況は悪化したのに、戦争は辞められなかったのですか?

日本では、開戦時から、この戦争は長期になれば日本が不利であることは理解されていた。つまり、戦況が悪化する前に講和を結ぶ必要があると考えられていた。政治家では近衛文麿や岡田啓介といった総理大臣経験者や、皇族の高松宮宣仁親王などが極秘にその準備を進めていましたが、開戦百日ほどは日本軍は予想をはるかに上回る破竹の快進撃を続けていて、とても早期和平を言い出せる雰囲気ではありませんでした。

具体的に和平への動きとしていわゆる重臣レベルの連携が始まったのは、ガダルカナル戦(1942-1943)以後ではないかと考えられます。海軍では将官級の最高幹部の一部が和平への極秘活動を開始し、京都大学の学者集団(京都学派)に対して、具体的な戦争収拾策の検討を依頼しています。先に挙げた近衛文麿や岡田啓介ら重臣も活動を積極化させ、有力官僚、政治家などと密かに意見交換を行い、早期和平へと向けた動きを水面下で進め始めました。

しかし、東条首相は日本敗勢の中での講和に消極的で、和平への動きを封じ込めようと考え、和平グループの中核の一人だった政治家・中野正剛を逮捕して獄死させます。しかし戦局はさらに悪化し、東條内閣は責任を取って総辞職することとなります。こうなると、陸軍上層部にも和平への動きが芽生えてきます。

新たに参謀総長となった梅津美次郎は中国での人脈を駆使して蒋介石の国民政府との単独講和を実現させようと積極的な工作を行いました。太平洋戦争における米国の大義名分は蒋介石の中華民国への支援ですから、日中講和が実現すれば、米国は名分を失い、講和するより他に道はなくなると言う読みです。東條の跡を継いだ小磯国昭首相はこのアイデアに大乗り気で、熱心に進めましたが、陸軍の東條派や外務省は、仲介する中国人脈の信頼度が低すぎるとして大反対でした。混乱の責任を取って1945年4月に小磯内閣は総辞職し、和平派の鈴木貫太郎による内閣が成立しました。

この中国への和平工作の動きとは別に、欧州を舞台にしたアメリカとの極秘和平交渉も試みられ、小磯内閣末期の昭和20年3月には、米国駐スウェーデン公使であるバッゲから密かに日本側に和平交渉の打診がありました。外務省は情報の信頼度が極めて高いことから、このバッゲルートでの和平工作を開始します。海軍も5月にはスイスでアメリカ戦略情報局のダレスとの和平交渉を開始しています。陸軍はスウェーデン駐在武官の小野寺少将を中心に、スウェーデン国王の正式な仲介を取り付けられそうなところまで交渉を進展させました。

一方、相手側であるアメリカ政府内には、大きく分けてソフトピース派(早期講和派)とハードピース派(完全勝利派)の2つの派閥が、日本の終戦処理を巡って激しい政治闘争を繰り広げていました。もともとは、米国有利に講和できるのなら、戦争などと言う無益のものはできるだけ早く終わらせるべきであると言う国務省を中心とするソフトピース派が優勢でしたが、マリアナ沖海戦(1944)の圧倒的勝利などで軍部を中心とするハードピース派が勢いを増し、米国世論も「完全勝利・東京占領」を目指すべきだと言う色彩が日々濃厚になっていました。

1945年6月、米国政府内の派閥対立の動きなどの情報を得た、時の外務大臣・東郷茂徳は米・国務省ルートは不確実であると考えソ連経由の和平工作に一本化します。これなら、連合国内の有力国家の仲介なので、米国政府としても無碍に扱うことはあるまい、大統領と直に交渉するのと同じ効果が得られるだろうと考えたのです。日本政府は知らなかったのですが、1945年2月のヤルタ密約でソ連は対日開戦を決めていましたから、随分のんきな話でありました。(寺前注 ヤルタ情報は入っていたが、参謀本部でにぎりつぶされ活用されなかった。)この後、日本政府はこのソ連経由の講和に全力を集中し、近衛文麿をモスクワに派遣すると言う話にまで至りますが、この間、ソ連はのらりくらりと交わし続けながら、8月になって突如、開戦します。

全体を通して感ずることは、講和への動きが遅すぎました。ガダルカナル直後ぐらいなら、まだ、かなりましな講和が結べたのではないかと思います。その意味では、他の皆さんがお書きになっているように、負け方へのノウハウの蓄積が少なすぎたのではないかと思います。負けるにしても、一回ぐらいは勝って、有利な状況で講和したいと言う気持ちが強すぎて、チャンスはあったのに、戦争をやめることが出来なかった(昭和天皇の最後の一撃論)。

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