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動画で考える人流観光学(開志) 2023年10月30日 観光資源⓵ 人流観光学の中心的概念

公開日: : 最終更新日:2023/11/19 動画で考える人流観光学

教科書 第4編 観光資源 観光者(ツーリスト)の視点

観光資源という言葉は、朝日新聞では観光基本法成立(1963年)以前には、使用例は1例のみであった。

英訳では  resources for tourist 又は resources for tourism  この違いは何か?

教科書119ページの記述

「観光資源」は法令用語としては、旧観光基本法において初めて採用された。それまでは1950年に田中角栄が議員立法により提案した京都国際文化観光都市建設法、奈良国際文化観光都市建設法において字句「文化観光資源」として、文化とセットで用いられてきた。

『観光学大事典』では字句「観光資源」は鉄道省の内部文書で使用されたとあるが、確認が必要である。なお、『観光の事典』1-2「観光の語源」においても依然として「Tourismの訳語として一般的に「観光」が使用されるようにったのは大正期であったと筆者は推測する」と記述がある。これは私が「観光の事典」の「観光政策と行政組織」に記述した解説と平仄を併せるために「推測」と記述されたのであろうが、研究者であれば推測の根拠を示す必要がある。当時の鉄道省の資料には、それらしき記述が今のところ見当たらない。

『観光の事典』朝倉書店

◎観光資源概念  常に変化する

観光資源(開志)

教科書図

二項対立 自然と文化  では温泉は?

世界遺産も同じ 複合資産(佐渡金山)

分類はコミュニケーションツールであり、常に書き換えられている。ある分類を使わなければいけないといえるのは、誰もが従わざるを得ないことが示される場合だけである。(『科学の罠 長谷川英祐』)

 

1 自然と文化の二項対立的分類

1-1 二項対立的分類の思想

江戸期の主流である朱子学が、社会現象は自然現象と未分離であるとする思想であったのに対して、伊藤仁斎は自然現象から社会現象を分離し、独自の現象ととらえた。更に社会現象を人為的に改変可能なものととらえたのが荻生徂徠である。

多くの観光学研究者も観光資源を自然資源と文化資源に大別する。日本の観光資源政策は、歴史的な経緯により自然公園法及び文化財保護法に基づきそれぞれ異なった法体系のもとに、規範性のある分類を行ってきている。

 

 史蹟名勝天然記念物

1919年に公布された史蹟名勝天然記念物保存法は、それまでの日本人の自然観を反映して、史蹟名勝天然記念物と国立公園を渾然一体として取り扱っていた。観光資源を自然と文化に分離して制度的に考えるようになったのは、1930年に鉄道省に国際観光局、商工省に貿易局が設置された時期からである。これと前後して1929年に国宝保存法、1931年に国立公園法が制定された。この基本的なスキームは今日まで変化していない。

史蹟名勝天然記念物保存法では、貝塚、古墳をはじめとする遺跡のうち日本国にとって歴史上または学術上価値の高いものを史蹟と分類し、発掘に関し「古墳ヲ發掘スル場合ニ於テハ當該吏員ハ地方長官ヲ経由シ文部大臣ノ認可ヲ受クヘシ」と規定していた。運用基準である「史蹟名勝天然紀念物保存要目」が規定する史蹟には「都城跡、宮跡、行宮跡其の他皇室に関係深き史跡」が分類されていた。

神話が絶対視されていた時代には、史蹟発掘に大きな制約があり、日本考古学の父と呼ばれた招聘技師ゴーランドでも自由に発掘出来なかった。西都原古墳は、皇祖発祥の地との当時の認識のもと、1912年から1917年にかけて日本で初めて本格的学術調査が行われた。宮内庁陵墓参考地(皇室財産)であることから、特別史跡の指定範囲には含まれていない。

 

 世界遺産条約の分類

世界遺産条約は1972年に採択されたが、日本では1992年頃まで同条約の必要性を認めない国会答弁がされていた。1993年白神山地(Ⓗ)等が世界遺産登録され観光資源としての価値が認識され始めたころからマスコミも注目し始めた。

ユネスコ世界遺産委員会は、1992年に「世界遺産条約履行のための作業指針」の中に、文化的景観(Cultural Landscape)の概念を盛り込んだ。分類上は文化遺産だが、自然的要素に特筆すべき点がある場合には複合遺産とした。文化的景観を理由に登録された世界遺産の第一号は、トンガリロ国立公園(Ⓗニュージーランド)である。この物件は1990年に自然遺産として登録されていたが、マオリの信仰の対象としての文化的側面が評価され、1993年に複合遺産とされた。トンガリロに限らず人間に大きな感動を与える自然は信仰の対象となるのは普遍的なことであろう。

 

歌枕の風景と定数名所

変化に富んだ自然の風景を見て美しいと感ずるのは現代人の常識となっている。では、平安時代の女官たちはどうであったのだろう。源氏物語も枕草子も、自然描写の細かなものが少ない。

歌枕の風景は絵画と和歌のモチーフになるとともに、絵画と和歌はガイドブックの機能を果たしていた。定数名所は、我が国の優れた名所・観光地として三景,八景,十二景,百景等として定数(名数)で選ばれた名所・観光地を指し、ガイドブックの機能を有していたのである。従って西田正憲は、平安文学は「意味の風景」の時代であったと断じている。

水村美苗は日本語が「現地語」から脱局して「国語」として成立した時期を明治の文明開花期だと記述する。平安文学といわれるものは、当時全く一握りの人々の娯楽として存在したものだと考える(『日本語が滅びるとき』)。

これに対して文学界の主流は、平安期に「国語」が成立していたと考える。伊勢物語、源氏物語、平家物語、方丈記、徒然草などの作品が生まれたのは漢字かな混じり文が成立していたことが大きく影響していると考える。

「現地語」から共有化が進んだ「国語」が成立すれば、風景を認識するもとになる文化を共有出来る共有出来る地理的概念の未発達な古代、中世においては、共有できない実景よりも、共有する文学にあらわれる場所に特別の意味が重要であった。コミュニケーションを取る意味では、景観よりも意味が大切であったことは現代人の我々でも理解出来る。現代でも、富士山を見て日本であると思うのは、その情報を共有しているからである。従って西田正憲のいう「意味の風景」「視覚の風景」は程度問題なのであろう。

なお、有働裕著『「源氏物語」と戦争』によれば、源氏物語が教科書に採用されたのは意外に遅く、1938年のサクラ読本(六年生)において口語訳が掲載されたのが初めてである。宮廷恋愛を描いた源氏物語を道徳的に問題のない「児童文学」に改変して教科書に掲載し、一方で源氏物語を世界的文学と称揚しつつ、他方では道徳的観点から原典にあたらせないようにするという、教科書作成側の苦心が明らかにされている。

 

ガイドブックとしての地理的概念の発生

古代・中世の片道一週間程度の繰り返される貴族の旅は、沿道に国衙機構が整備され、社会体制が形成されていたから可能であった。十世紀代の熊野詣(Ⓗ和歌山)は、必要物資は京から持ち出され参詣費用にあてられていたが、次第に現地で調達する方式が成立していった(舘野和己・出田和久編『日本古代の交通・交流・情報2』吉川弘文堂)。いずれにしても観光概念は成立しない時代であった

近世に入ると風景の見方に新しい変化が芽生えてきた。客観的な観察や記録に主眼をおいた紀行文の新しい動きが出てきた。同時に十七世紀中頃から旅案内の出版が始まっている。なかでも貝原益軒は早い時点でいくつもの旅行記を表した。柳田國男が、近世の紀行文学におけるこの詩歌美文から風土観察への転換が、十七世紀末の貝原益軒の紀行文から始まると指摘しているのも、このことによる。

十八世紀から十九世紀にかけては、農業生産が拡大し、商品経済が発達し、社会にはゆとりが生まれ始めた。街道は整備され、宿場はにぎわい、社寺参詣、名所遊覧、講中登山などの庶民の旅、学者や武士の採薬登山、蝦夷地と長崎への旅と新しい旅が生まれていた。浅井了意の『東海道名所記』をはじめ、十八世紀後半から十九世紀前半に、ガイドブックの販売部数が増加した。

庶民にとって想像で思い描かれるだけの歌枕が、実際に訪れることの出来る名所になった。そして視覚体験と絵画形式の落差が認識された。山梨俊夫によれば、「真景」とは想像力で作り上げた仮構の山水風景ではなく、絵描きが自分で実際見た、あるいは体験した景観を表す絵という意味が込められている。案内記に描かれた絵は、典型的な視点を選択しているから「仮構」である。旅では新たな発見と先入観の確認という、この相反する二つの事柄が錯綜して起きる。名所旧跡は、その典型的な場となったとする(『風景画考 世界への交感と侵犯〈第三〉風景画の自立と世界の変容』)。このことはテレビの旅行案内で知り得た情報を自分の目で確認する現代と変わりはない。テレビで見た大きさより小さいサイズの場合、意外感に襲われたりもするのである。

西洋において海洋の風景が発見されたのは十七世紀、森林や田園風景が発見されたのは十八世紀、山岳地等の大自然の風景が発見されたのは十九世紀である落葉広葉樹の自然林や湿原の風景が発見されたのは二十世紀になってからである。従って十六世紀から十九世紀初めにかけてのオランダ商館員は、瀬戸内海の風景を賞賛することはなかったが、幕末から明治にかけての欧米人は賞賛したのである。欧米人は多島海、湖、河川、海峡といった近代の豊かな地理的概念を自由に駆使して瀬戸内海の風景を捉えた。西田正憲は、この欧米の風景観が日本に浸透し始めるのは二十世紀になる頃であったとする(『瀬戸内海の発見』)。

この点については、ミシママサオは、ヒュースケンの富士山に関する記述と、万延元年遣米使節団一行がサンフランシスコ湾の風景を表現する諸日記の文章を比較して、日本語が一人称の発達を見なかった点を原因としている(『我ら見しままに』)。

旅のガイドブックである紀行文は明治二十年までは具体的風景叙述がなく、江戸期の延長であった。柄谷行人は風景が日本で見出されたのは明治二十年代であるとする(『日本近代文学の起源』)。地理学者であり政治家・志賀重昴の『日本風景論』も明治二十七年に出版された。しかし同時に、他国の風景と比較し日本の風景を優位に置いた内容は、内村鑑三から批判を浴びていた。近年、同書が洋書からの剽窃が多いことの指摘を受け、更には金剛山等を世界に紹介するイサベラバードの著作が広まるにつれ、同書は教科書から削除された。それどころか、「志賀の漢文調は山頂の眺望は表現しえたが、自らが重視した途中の変幻自在な風景を写すには定型的」(『嘘の政治史』五百旗頭薫)とまで評価されている。

地理的概念が豊かになり通用するようになることと、固有名詞が付されるようになることは別問題である。日本航空機墜落事故をきっかけに御巣鷹山が認識されるようになった。全国に膨大な数の名もない山川が存在し、ある時突然観光対象として登場するのである。

 

観光資源(開志)

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