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動画で見る世界人流・観光施策風土記欧州編 資料 アイルランドのジャガイモ飢饉 英国首相の謝罪

公開日: : 最終更新日:2022/01/13 海外観光

『植物たちの戦争』日本植物病理学会編著

p.22 人口が800万から600万に減少.

ジャガイモ飢饉だけではなく、イングランドへの食糧輸出されていた社会構造に原因 1997年 ブレア首相の謝罪 ブルートンアイルランド首相の受け入れ 150年かかった。日韓も2050年までには解決してほしい。150年前は日本でも、呪術での殺人は死刑と規定されていた

1845年の秋、土の中から腐敗臭が漂ってきた。ジャガイモの緑色の茎が、一晩で黒く変色したのだ。いつもは高く伸びている茎が、農夫の目の前でしおれ、枯れていく。農夫は土の中に手を入れて、ジャガイモをつかんだ。ジャガイモは腐りかけで、どのジャガイモも全体が黒くなっている。その年のジャガイモは、原因不明の病気で全滅してしまったのだ。全国で不作が相次ぎ、農家は困惑し、打ちひしがれていた。農家にとって、ジャガイモは唯一の収入源であり、食料でもあった。ジャガイモの年間収穫量の半分が消えてしまったのである。

国土の35%が唯一の食料源としてジャガイモに頼っていた。裕福な地主の小作人たちは、家族のために必要な食料を栽培するために0.5エーカーの土地しか持っておらず、ほとんどの家族がジャガイモを唯一の食料源としていたのである。少なくとも、借地人であれば、住まいと食料は確保できた。しかし、ほとんどの者の場合、ホームレスは当たり前で、その場しのぎの泥小屋に住むか、溝の中で寝泊まりしていたのだ。

その冬は厳しいものになりそうだった。多くの貧しい家庭は口数が多く、飢えで死ぬのは簡単だった。食料はすぐに底をつき、人々は飢え始めていた。農民たちは他の作物を栽培し始めたが、土地を増やし続ける賃借料を支払うための資金が必要だった。ヴィクトリア女王に嘆願書を送ったが、それは聞き入れられなかった。政府は、このままでは国家的な大災害になるのではと心配し始めていた。しかし、アイルランドでは不作はよくあることで、1ヵ月後に政府が不作が当初考えていたよりも深刻なものだと気づくまで、深刻に受け止められなかったのだ。

当時のイギリス首相、ロバート・ピール卿には、2つの選択肢があった。1つは、アイルランドからイギリスへの食糧の輸出を止めて、不足分を補うこと。アイルランドはイギリスの穀倉地帯として知られており、アイルランドで生産された食料のほとんどが輸出されていた。また、食料の輸入を増やしたいと考えていたが、他の国も飢饉を恐れており、輸出を禁止して食料の供給を制限していた。トウモロコシは高価で、パンなどは貧乏人には高くて買えない。ロバート・ピール首相は、安いトウモロコシの輸入を禁止するトウモロコシ法を廃止しようとしたが、激しい批判にさらされた。結局、ピールはアメリカから安いトウモロコシを輸入することにし、一方で食料の輸出はまだ大規模に行われていた。

ロバート・ピール首相は、アメリカから輸入した安いトウモロコシを買うためのお金を、働いて稼ぐという救済策を打ち出した。70万人がこの制度に応募し、1846年の夏まで実施された。人々は飢えていたが、この年、餓死者は出なかったという。

1846年の春、人々は1845年の失敗を繰り返さないために、前年よりもさらに多くのジャガイモが植えられた。農民たちは、辛抱強く作物が育つのを待った。敬虔なカトリック教徒である農民たちは、健康な作物を与えてくれるよう神に祈った。しかし、夏になると、腐ったような悪臭が漂い、農民たちは皆、恐怖と破滅の念に襲われた。ほとんどの農家では作物が全滅してしまった。このことは、国中のほとんどの農家、特に田舎のほうでは最も大きな災難に見舞われることを意味していた。イギリスの新首相は、ロバート・ピール前首相が前年の食糧不足に過剰に反応したことを非難したが、実際には誰も死んでいなかった。新政権は、資本主義が欠点を補うのだから、できるだけ干渉すべきではないと考えていた。

ピール前首相のワークスキームは、現地の物価に合わせるという厳しい条件のもとで残された。このため、1日の労働に対する報酬は8〜10ペンスと、家族を養うのにやっとの額であった。1846年末には、4分の3の人々がこの労働制度に登録した。20年前に建てられて、一般に人々から嫌われていたワークハウスは、今や満杯の状態であった。ワークハウスは、本当に絶望した人たちにとって最後の砦だった。食事代と食費のために働き、それ以外には何もしない。過密状態によるひどい生活環境のために、多くの人がこのワークハウスで死んだ。飢饉熱などの共同感染症が蔓延し、多くの人にとってワークハウスは死の宣告となったのだ。

新首相は、貧しい人々への食糧供給を地元の商人に任せていた。しかし、多くの商人たちは、このルールに反対して食料の提供を拒否した。そのため農村部では多くの餓死者が出た。家族全員が餓死したという報告も医師からなされた。ある村では、父親が冷たくなって4日間も口をきいてくれない、と泣きながら一人で歩いている幼児を発見したという報告もあった。1846年末になると、飢饉はさらにひどくなり、多くの人々が棺を持たずに、ただ集団で葬られた。

1847年の秋、またしても作物は不発に終わった。北から冷たい空気が吹き込み、この100年間で最も寒い冬をもたらした。飢えた人々を養うために、スープの配給キッチンが設置された。トウモロコシの配給は地元の委員会に任され、委員会は権力を濫用して「多くの人々が健康そうだ」という理由で配給を拒否した。このため、多くの人が亡くなり、国中に大きな怒りが広がった。炊き出しの食料も不足し、多くの人が列をなして食事を待ちながら死んでいった。多くのコミュニティでは、飢饉が始まると飢えに苦しむ人々に食料を提供するようになった。 しかし、飢饉の熱病が流行すると多くの地元人々は、何かに感染することを恐れて近づかないようになったのだ。

チャールズ・トレビヤンは、飢饉の救済を監督する大臣であった。彼は、労働者は働いた分だけしか給料をもらえないという新しい規則を導入した。そのため、弱者や病人は食料を買うだけのお金を稼ぐことができなかった。飢餓でよりも、寒い冬と蔓延する病気による死者の方が多くなった。何十万人もの人が「黒い47号」と呼ばれる病気で死んだ。餓死者の数は減っていた。餓死者が出る前に病気で死んでしまうからだ。

移住しようとした何百万人もの人々は、船でアメリカへそれらの病気を持ち込んだ。目的地に着く前に40%の人々が病気で死んだ。棺桶船の厳しい現実は、それでもアイルランドに戻って餓死するよりはましな選択だったのだ。

このじゃがいも飢饉が終わるまでに100万人が亡くなり、さらに100万人が移住した。

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